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太平記

長崎新左衛門尉意見事附阿新殿事我身は労る事有由にて、尚本間が館にぞ留ける、是は本間が情なく、父お今生にて我に見せざりつる、鬱憤お散ぜんと思故也、角て四五日経ける程に、阿新昼は病由えて終日に臥、夜は忍やかにぬけ出て、本間が寝処なんど細々に伺て、隙あらば彼入道父子が間に、一人さし殺して腹切んずる物おと思定てぞ子らいける、或夜雨風烈く吹て、番する郎等共も皆遠侍に臥たりければ、今こそ待処の幸よと思て、本間が寝処の方お忍て伺に、本間が運やつよかりけん、今夜は常の寝処お替て、何に有とも見へず、又二間なる処に、灯の影見へけるお、是は若本間入道が子息にてや有らん、其なりとも討て恨お散ぜんと、ぬけ入て是お見るに、其さへ援には無して、中納言殿お斬奉し本間三郎と雲者ぞ、隻一人臥たりける、よしや是も時に取ては親の敵也、山城入道に劣まじと思て、走かヽらんとするに、我は元来太刀も刀も持ず、隻人の太刀お我物と憑たるに、灯殊に明なれば立寄ば、軈て驚合事もや有んずらんと危て、左右なく寄えず、何がせんと案じ煩て立たるに、折節夏なれば灯の影お見て、蛾と雲虫あまた明障子に取付たるお、すはや究竟の事こそ有れと思て、障子お少引あけたれば、此虫あまた内へ入て軈て灯お打けしぬ、今は右(かう)とうれしくて、本間三郎が枕に立寄て探るに、太刀も刀も枕に有て、主はいたく寝入たり、先刀お取て腰にさし、太刀お抜て心もとに指当て、寝たる者お殺は、死人に同じければ、驚さんと思て、先足にて枕お、はたとぞ蹴たりける、けられて驚く処お、一の太刀に臍の上お畳まで、つとつきとおし、返す太刀に喉ぶえ指切て、心閑に後の竹原の中へぞかくれける、〈○下略〉