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明良洪範
十八
朝倉義景の家士に、松木内匠といへる武士、年来の仇ありしに、彼が為にはかられて終に討れ、又それが一子十才ばかりなるお抱きて、妻は山中に落行たり、此子廿歳ほどになり、松木某といひて、件の仇お尋ねもとむるに、敵は己が領地に家作し、四方に堀お構へ夜は橋おひきて用心きびしければ、松木は隻一人にて本意お遂げがたけれど、共もに天お戴くべからざれば、所詮命お捨て切入らそと志し、先案内お知らんとて、乞食と成て敵の家に到りて窺がうに、門戸の出入きびしくて入べき便なし、台所の上にけぶりお出す引まどの有て、其外は井にして車釣るべお掛たり、よく見おほせて帰り、深夜に及びて往て見れば、門前の橋お引たれども、水おおよぎて堀お越し、門内に入、夫より屋根に上り引まどより這入、釣るべの縄おつたひて下りんとするに、縄切て井中に落入りたり、〈○中略〉主人出た暫まもり居て、面体の松木に似たるは、いか様に其ゆかりの者にやあらん、夜中に墓所へ引行て斬罪せよと申しければ、厳く縄おかけ、家人共大勢取かこみ、前後にたひまつ多く立て引行に、村中の若者共聞付て、我も〳〵とたひまつもてくる程に、五六十人に及びぬ、山路の細そくして両方は深き谷にて、水音かすかに聞ゆる所にて、松木思ひ切て横様に谷へ飛入ければ、縄持たる男ともに、数十丈深き所に落入けり、〈○中略〉もとの山路へよぢ登り、人の捨たるたひまつ取て、数十人の中にまぎれ入て、共に里に返るに、知る人さらになし、〈○中略〉松木は間おうかヾひ、床の下に這入てかくれたり、里人どもヽ暇乞して帰りぬ、門戸およくさしてよと雲ひて、家内しづまりけり、主人もねやに入りていねたりしお、床の下にて能聞すまし、鳥鳴の頃はい出て、兎角して寐間に入て見るに、灯火かヽげて主人臥たり、添臥の女二三人死人の如くね入りたれば、枕もとに有し刀お取て、主人の首討落して提て出んとするに、〈○下略〉