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常山紀談
二十五
青山因幡守宗俊の士に、石井宇右衛門政春といふ者あり、因幡守大坂御城代の時、宇右衛門も従へり、赤堀遊閑といふ医ありて、其従子源五右衛門お養子にしたるが、石井にゆかり有て頼みたりしかば、心得たりとて、天満のかたはらなる寺に置て、常に字右衛門がもとに来り、親しくしたりしに、年経て赤堀鎗お弟子に教へて、かなたこなたせしに、源五右衛門が鎗いまだ精練ならず、人に教へん事覚束なしと、石井いひけるお、赤堀用ひざるのみならず、石井に立あはれよといふ、石井女がためにこそいへ、老たる身の立あはんも無益よといへども、赤堀怒りて止らざれば、、いざとて立合けるに、手もなく石井勝たりしかば、赤堀口おしき事に思ひ、延宝元年十一月十八日の夜、字右衛門〈○石井〉が出たる隙に忍びて来りかくれ居て、かけたる鎗お盗み出し、字右衛門が帰るお待て、戸の内に入んとせしお突通す、刀お抽てゝおたぐりけれども、十文字の横手にかゝり、深手にて倒れ死す、従者何者ぞといふお、一太刀斬て源五右衛門は逃去けり、石井が嫡子三之丞は番にて有合ず、次男彦七郎は臥居たるが出んとすれども、部屋の戸お源五右衛門かけ置たれば、踏破て出けれども、源五右衛門行方しらずなりぬ、三之丞暇お申て、彦七と共に青山の家お出、源五右衛門が行方お尋れども、更に何方にありとも聞えざりしかば、源五右衛門が父遊閑も同意にてやあらん、此者お討ば、源五右衛門隠れ居じとて、同年の冬、江州大津にて遊閑お切殺し、それより京五条の橋、伏見の京橋、大津の町に札お建、重恩の人お殺し逃走りたるは、士の法に非る故、大津にて父遊閑お殺せり、女が為にも仇なれば逃めぐらん事お止よ、首お刎べし、赤堀源五右衛門へとて、石井兄弟が姓名おしるしけり、されども源五右衛門出あはねば、所々お尋ねめぐれども見出さず、美濃室原村の犬飼瀬兵衛が妻は、三之丞彦七がおばなり、是お便にして援に有しに、彦七は犬飼が一族にむつましからず、遂に我一人仇おうたんとて、室原村お出にけり、延宝八年の冬、瀬兵衛が妻死して、其翌年正月、三之丞従者孫助お安芸へ使にやりて、唯一人犬飼が家に有て湯あみしける処に、源五右衛門忍び来り、其戸の側に隠れ居て、一刀に三之丞に深手お負せけり、頃は天和元年正月廿八日の夜の事にて、くらさはくらし、二の太刀に三之丞が刀持たる右の腕お打落す、三之丞伏ながら脇差お抜て、左の手にて赤堀が股お突き、そこにて死しけり、〈○中略〉半蔵又江戸に赴きしかば源蔵〈○半蔵兄〉も又江戸に行て、町奉行川口摂津守のもとに参りて、仇うつべき願の書お出す、是元禄十一年十一月十六日なり、半蔵は軻とて来らざるやと問るゝに、弟は所々志し候所お立めぐり候中に煩ひ出し候旨お申す、仇討んと志し候ば、年久しく成ぬ、いかに今までは申出ざるやと問るゝに、源蔵聞て、兄弟とも幼少にて、敵の有家お存ぜず、近頃承り出したる事の候て申出たるにて候、又承り出さゞる前に申出んには、外へ洩聞えて、仇の弥かくれ候ひなん事お恐れての事に候といへば、猶なりとて帳に記して、さて、摂津守聞届られぬ、江戸御城の下馬のもとにても、見付たらば討とめよと許されしかば、辱き由一礼して、又松前伊豆守の許に至りてければ、摂津守よりいひ送られし故、帳に記して、とく首尾よく仇討れ候へと色代す、〈○中略〉兄弟今は亀山にありて時お待処に、赤堀が当番の帰路お討べしと定めて、元禄十四年五月にも成ぬ、八日は赤堀が番なれば、午の刻に代りて帰る処お討んとせしに、とく帰りて志お空しくす、さらば其明る朝の帰路おとて各用意したり、〈○中略〉赤堀其日は唯一人広間より出て帰りしかば、兄弟打つれて二の丸の外なる石坂門お打過ける時、赤堀が後よりかけぬけて前に立ふさがり、石井宇右衛門が子源蔵半蔵なりと詞おかけ、源蔵抜うちに赤堀が眉間お切、赤堀我刀の柄にて請とめたれども、二の太刀すかさず切たる処に、半蔵かけ来り、赤堀が頭にふかぶかと切付、たふるゝ処おたゝみかけて切たりしかば、立もあからず死したりけり、源蔵乗かかり刺貫てとゞめおさし、従者おば追はらひつ、兄弟は初赤堀が父お打たりしより、仇お報ゆる次第しるし置たるお、常に各一通帯の中へ入たりしお取出し、赤堀が袴にはさみけり、〈○中略〉岐曾路より江戸に趣き、五月廿六日、町奉行保田越前守のもとに行て、仇討たる由お申せば、尋問るゝ事ども有て、越前守自出て、兄弟に始終詳に聞いたはらるゝ事大かたならず、饗膳給はりて、それより松前伊豆守のもとに至りしに、過にし年逢たりし、人々出て悦びあへり、青山の芸州の屋敷に往て、石井清大夫がもとにあり、青山下野守の嫡子筑後守此由お聞、即使お以て兄弟お引とられけり、其後下野守の領地、其比浜松なりしかば、遠州に至り、兄弟ともに寵せられ、源蔵後重き職お命ぜられけり、