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伝奇作書
初篇下
崇禅寺馬場敵討の実話
宝暦八寅年三月に、浄瑠璃にせし敵討崇禅寺馬場は、〈作者竹田小出雲、竹田滝彦なり、〉今写本にも画本にも有て、世によく知れる所也、返り討となりし兄弟が墳墓は、北中島にあり、此実説お去る老人の夜話に聞し所、返り討にあらず、合討にて有しとぞ、生田伝八郎は、武術も鍛練して、さまで卑怯なる武士にもなかりしが、郡山の藩中にて、遠藤宗左衛門お意恨有て討取り、浪華へ来つて谷町弓師丹波方の食客と成て居しが、其頃浪華には、剣術柔術お励む武士多く、此生田が門弟と成けり、〈○中略〉門弟に誘はれ生玉辺へ、伝八郎の出し途中にて、はからず遠藤〈異本遠城〉治左衛門に出合ひ、名乗かけて敵お討んと乞ひけれ共、傍には門弟も数多居る事なれば、段々と言なだめ、明後日北中島崇禅寺にてと約してわかれぬ跡にて門弟口々に尋ねける故、伝八郎にも是非なく郡山にての次第お物語りければ、若手の門弟血気にまかせ、先生のお手お労さるゝに及ばず、我々が討取んと進むお、段々と申なだめて、曾根崎へ帰りの、扠も治左衛門には、石町〈異本谷町〉の借座敷にかへり、弟喜八郎に其日の子細お語り、約束の日遅しと待わび、当日崇禅寺馬場へ行けれ共見えず、空敷帰りがげに、丹波方へ催促に行ける、丹波方へもとくより伝八郎の書面来てあり、今日はもだし難き用事出来、明日は相違なく彼所にて勝負お決せんとの文言也、翌日こそ優曇華勝りの敵討と、兄弟諸共に小踊りして、翌日未明より宿お出、長柄の渡場さして行けり、援に伝八郎日限お延せしは、門弟の銘々面白き事に思ひ、且は後学の為などと、同道せん事お乞へ共、伝八郎にはまさか兄弟の者お討とて、大勢の門弟お連行んも恥かしとて、此評定に日限一日延しけれ共、達てとのぞんでやまざりければ、是非なく、翌朝門弟の銘々お同道して、渡しお先へ越すより、兄弟も渡しお越へ、勝負にかゝる迄は、大体写本の通りなれば略す、互に姓名お名のり立合ふ頃は、まだ薄暗き頃にて、人顔も朧に見ゆる計なれば、松影より遠矢にて兄弟共に射て取んと、雨の如くに放しかけたり、兄弟是お、事共せず、伝八郎の双方より剃刀と刀にて打かゝる、伝八郎双方に受ながら、まつしぐらに戦ひけるが、木蔭よりは眼つぶし或は瓦石礫お投出し、誰か一人顔は出さねど、投かけ射かけする程に、兄弟の眼へ砂や入けん、互に喜八兄者人と声おかけながら、伝八郎に討てかゝりしが、伝八郎にも疵やあうたりけん、三人共に掛声もかすかに成り、ひつそと成て静まりける、夜も明きたらば道通りの者の目にやつかんと、門弟共そこ援より馳集り、三人の傍へ立より見し所、三人共朱に染み、伝八郎傍に分れ兄弟は体おにじらせ、負重なつてぞ息絶たり、門弟あはて伝八郎には印籠の気付おのませなどして介抱し、兄弟の骸には総々よつてとゞめおさし、身に立し矢お抜とりし折、遠藤兄弟よりは伝八郎の身に立し矢数多かりしとなり、さも有べし、鼎の足の如く三人の向ふ所へ、的も定めず遠矢お射しゆえ、生田の身に立し箭の多きは、是実説正銘也と思はる、〈○下略〉