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常山紀談
二十四
孫兵衛〈○多賀〉に両人の弟あり、此時十三歳に十一歳なり、兄は後父の名おもて孫左衛門といひ、弟は忠大夫といへり、〈○中略〉兄の仇お討んとす、されども幼かりし時の事故、内藤お見知らず、父孫左衛門が介抱し置たる浪人間市大夫、恩お報ぜん事此時なりとて附従ふ、孫兵衛が妹の子三田右衛門八も相加はれり、〈○中略〉八左衛門は小笠原信濃守忠修に奉公し、碌五百石与へられ、仇あるゆえ他所へ遣されず、勤労もなく隻あらん事快からず、人なみの奉公お許されずば、永く暇お給はれといふによりて、江戸の供の列に入られたり、〈○中略〉或時内藤、土井大炊頭のもとへ使者にゆく、多賀聞て帰るさに途中に出迎ひたり、八左衛門人数多く引つれ、馬上にて来るお、間あれこそ内藤よとおしふ、若打損じたらんに、馬上にて馳ぬけんも計りがたしとて、孫左衛門、市大夫前より忠大夫、右衛門八後よりかゝり、其間近くなりて、孫左衛門編笠お脱、覚はなきか八左衛門と詞おかけ、頭お額へかけて切る、忠大夫二尺七寸の刀おもて飛かゝり切る、きられてそりざまにふみ出したる鐙、忠大夫が拳に当りて、指の骨白く出たりとなん、さて内藤落る処お、孫左衛門たゝみかけて切、忠大夫馬の下おくゞりて切とめたり、〈○中略〉あたりの人出合、奉行所へ連て行き、御法の帳面に記して、討ざる趣お尋らる、忠大夫もとより承り及びたる事ながら、万一それゆえに事もれて、討もらされんも計りがたし、本望遂なば何の身命のおしかるべき、御法に背きたりとて、刑罰にあふとも、附届に及ぶべからずと、必死に兄弟とも思ひ極めて候と、少しも屈せず申述る、又三田は近き親しみなり、間が助太刀はいかゞと問る、間承り浪人なりしお、多賀が恩お以て年月お送りぬ、孫兵衛殺されし時、両人の弟幼少にて仇お見知ず候ゆえ、手引して討せ候、多賀が多年の恩お報い候へば、いかに御咎お蒙り候とも、いとひ申さぬ志にて候と申述る、何れも申処猶至極せりとて、帰されたり、孫左衛門卅三歳、忠太夫卅一歳、右衛門八十八歳、市大夫〈○年欠〉孫兵衛死後廿一年の後、完永十八年辛巳、江戸大炊殿橋の敵討と世にいへるは是なり、〈○下略〉