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明良洪範

備前の松平宮内少輔忠雄の家士に、渡辺数馬と雲者有り、実永七年七月廿一日、岡山城大手にて踊興行有ける夜、右数馬は舅津田豊後方へ行き、跡に弟源太夫居たる所へ、同家中河合又五郎来りて、源太夫と談話して居たりしが、如何なる故にや、又五郎主従四人にて源太夫お切殺して立去る、〈○中略〉数馬、又右衛門〈○荒木〉主従四人、其日お待て六日の朝、仇と共に発足す、敵方は先は甚左衛門、中は又五郎、後は桜井半兵衛也、弓鉄炮鑓等持せ、七八町続行き、其日は伊賀の島が原と雲に著す、主従四人は見知られぬ様に、裏の道も無き所お踏分来て、宿お借んと雲故、人々怪み思へり、援に於て四人の者は、敵に悟られては成ずと、夜深く出て山に籠り、伊賀の上野小田町の酒店に最期の酒宴して待居る、〈○中略〉又五郎同勢は七日の朝、島が原お立て上野に掛る、又右衛門遥に見て雲、又五郎は数馬討べし、半兵衛は武右衛門、孫左衛門両人にて討べし、甚左衛門始其余の者皆某討んと雲、此武右衛門、孫左衛門は、数馬、又右衛門の若党也、さて又右衛門は一番先へ乗来る、〈○中略〉数馬は又五郎と戦ひ居ける所へ、又右衛門駆来り、数馬よくせよ助太刀はせず、かなひ難くは代らんと詞お掛たり、数馬是にかお得て、終に又五郎お討留たり、〈○下略〉