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日本武士鑑

松枝久左衛門兄敵討事
江戸に野田宗畔といふ医者有、〈○中略〉日来心安き浪人小屋甚兵衛、山崎勘六両人に、宗順〈○松枝〉お討てたびよと頼しかば、心得たりとてすかし出して、深川の舟に乗出て殺害せしお、船頭かひ〴〵しく二人お捕へて、奉行所に出しければ、宗順が惡事有により、宗畔が討せたりといふに、故こそ有らめ、浪人は江戸追放あり、宗畔は恙なかりし、宗順弟久左衛門、叔父岩井利兵衛とて、松平陸奥守殿能役者仙台に有し、此事お聞て暇お取て、下人ひとり連て江戸に来、敵おねらふ、仍宗畔も江戸には住がたくて、鎌倉に引越、浪人お抱置、用心きびしく近所の者にも、声高き事あらば出合て給へ、あやしき者あらば告てたうびよと、賄おつかひ頼しに、皆人心お合せしかば、中々可討方便なくて月日おふりけるが、よしや此儘にては本意遂がたからん、近年の労おも休め、又こそ登らめとて、奥州に下向する道にて、下人に女久しう付まとひ来る志しこそ浅からね、然共倩思ふに、今浪人の身にて何(い)お限共なく、かゝえ置ん事も成がたければ、暇おとらするぞ、命ながらへ又出ん時、志しあらば来れとて、金などあたへしかば、下人も涙お流しなごりおしみ、別て江戸に帰、主人誰かれは奥州にくだり、二とせ三とせ経てこそ来れ、みづからは隙お得て帰りしと人毎に語程に、いつしか宗畔が方に聞え、今は心やすしと用心おこたりて、援かしこ遊びに出ける、或時扇が谷に住道心者の庵室に行沙汰有、彼二人は法師になうて奥州にはぐだらで、鎌倉の中に忍びて居たりしが、此事お聞て願ふ所と支度し、宗畔お見知たる下人お召連し、比は延宝五年正月廿九日の夜に入、叔父甥黒衣に玉だすきおかけ、二尺余りの脇指お横たへ、扇が谷の内亀が坂の下に、宵より待居ける、漸更て相伴の輩、宗畔お中に立て帰る所お、下人走かゝつて、宗畔が挑灯お奪取て、是こそ宗畔よと挑灯指あぐれば、久左衛門名乗かけて討けるに、鎖衫(くさりかたびら)お著て切れざれしかば、刀お取出し、したゝかに突、宗畔剣術行花る者にて抜合、二つ三つ打と見へしが堀の底にかはと落ける久左衛門つゞきて飛おりし、宗畔も寝ながら働しかど、終に討れけり、〈○下略〉