[p.0542][p.0543]
明良洪範
二十四
勝女
勝女は京都の生れにて、織凪勘十郎信行に仕ふ、〈○中略〉八弥事は農民の子なれども、美男にして信行の寵遇お得たり、生長して才智ある故に織田の族姓お給ふて津田と称せり、家政にも預りしに、信長より附属の老臣に佐久間七郎左衛門と雲者あり、権威の八弥に及ばざる事お嫉み、或日事に依て八弥お大に罵り辱しむ、却て八弥が弁舌にて屈辱せられ、甚憤りに忍ず、勇士お頼みて殺さんと計る、八弥は予め是お察して、常に備怠らざれば、其事お果す能はず、依て烈風の夜お窺ひて、火お八弥が宅へ放つ、八弥は是に驚て門前へ出る所お、勇士等差挟で刺殺し遁れ失ぬ、〈○中略〉七郎左衛門其夜に出奔して、濃州稲葉城主斎藤山城守道三が家に隠れし由風聞せり、勝女は此事お聞悲哀に忍ず暇お乞ふ、〈○中略〉濃州岐阜の近村に叔父有し故、暫く此所に居住す、道三の嫡子右兵衛尉竜興放鷹に出しに、勝が容儀田舎の者にあらざる故、其故お問しむるに、京都より此所に来て仕お求むる者也と答、竜興喜で召寄られ、夫人の侍女たらしむ、元より歌学迄も達し、傍輩等も好親みければ、甚だ寵愛せらる、然るに翌年三月十五日、藩中の士に命じて騎射お試らる、其姓名お記して是お奉る、勝は傍にて是お見るに、其中に佐久間七郎左衛門と雲者ありければ、勝心中に窃に歓び、夫人に願ひしは、私事は京都の田舎生れにて、賤き育ちなれば、如斯壮麗なる事お見る事なし、願くは拝見致度由お乞ふ、夫人是お許容し給ひけり、然るに三月十五日にもなりしかば、騎射の壮士十五人、馬具等お飾り、一人づヽ馬上に礼おなして、姓名お告相列せり、其十五番に至りて、佐久間七郎左衛門と名乗しお聞、勝、簾中より走り出て、短刀お以て七郎左衛門が脇腹お突抜て、大音に雲けるは、津田八弥が妻勝也、夫の為に仇お報ずると呼はりければ、藩中の諸士不意の事なれば、大に騒擾せり、七郎左衛門も深手なれば忽ち死す、〈○下略〉