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鳩巣小説

一権現様御隠居後、駿河より江戸御城へ被為入御、台徳院様〈○徳川秀忠〉御前に、本多佐渡守なども罷あり、さて若き衆一同に勤番して居申処お御通被遊、是にまかり在る者どもの親は、定てよく御存のものに可有之候へども、乎供へ御見知不被遊候間、一人々々に自身名字お名乗候て、御目見為致候へと被仰出候ゆへ、一人々々罷出名のり申候、其時彼が親は此軍の時分、け様の手柄仕候、け様の武功者の候間、よく目お掛け御使なされ候へと、台徳院様へ一人々々に仰られ候、其内向坂六郎五郎と申者名のり候時、暫被思召出候て、何か被仰聞こと候故、近くよりて将軍にはいわぬ事に候へども、慰に御聞候へ、此六郎五郎が父何某と申者、兄の敵有之、日比心掛申候、其身若き時生れ付能候故、兄弟の契約仕者有之候、其兄分の者六郎五郎が父の兄の敵の有家お承出候て、六郎五郎が父に申候は、其方兄の敵のこと日比心掛候が、とくと其有家お承出候間、此上は申合候て討申べく候間、心易く存候へと申候へば、六郎五郎父申候は、其方左やうの心底と不存候て、念比に致し候我ら兄の敵お其方お頼て討申べき所存にて、其方と兄弟分に成候と存候や、左やうの比興の心底有之者と不存候て、申通候こと後悔に存候、最早向坂義絶いたし候とて、交りお絶申候、其後右敵無程病死いたし候、六郎五郎が父無念の余り、是お苦に致し、終に気鬱にて相果申候、其時六郎五郎は当歳にて、中々育申まじきと思ひ候、あのやうになり候やと、御落涙なされ候、其後仰られ候は、若者どもよく心得候へ、君父の敵兄の仇など申者お討申には、武辺名聞は曾て無之事に候、女お頼み申ても討申が肝要にて候、六郎五郎が父も、自身討申べきと存候て時節後れ、終に討損申候、是は若気にて悪き心得に候、君父兄の敵お一刀うち申ても、手柄と申義に候、又人お頼て後れと申すにても無之候、隻早く討申が肝要に候、援およく合点仕候へと御意なされ候、