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一話一言
四十五
仙台釘子村百姓仇お被討に参り候実記
奥州仙台領岩井郡東山釘子村庄右衛門と申者、敵お被討に参り候実記、
文政二年春、奥州仙台領岩井郡東山釘子村の百姓庄右衛門歳六十二歳、敵お被討に参り候次第は、〈○中略〉文政二年の春に至り、最早我六拾弐歳になりけるが、先年人殺したる事、朝暮心に絶へず、妻子にもふかく隠し、口外にも出さず、心中に計思ひて暮し、われ人お殺したるむくひ、終には子孫にむくふべしと案じ煩ひけるが、当年六拾弐歳に相成候へば、人間の定命も是迄なりとおもひあきらめて、子孫之為に、先年我が手に掛て殺たる子孫の者お尋て、敵お打れ候はゞ、子孫へむくひも有まじとおもひ付、〈○中略〉旅立ける、然る処、信州坂に掛りて相尋けるは、二十三け年以前、坂にて殺されける人の子孫、誰と申人にあるべきやと、道行人に問ける所、彼男答けるは、夫は我等近村に候由申ける、よつてしからばおしへ給へとて同道参りける、無程坂にも相成、同所百姓弥五郎と申者の所へ罷越ける所、振舞これある様子にて、男女大勢取込居りける所へ、庄右衛門申入けるは、私は奥州仙台東山釘子村庄右衛門と申者に御座候所、御亭主へ御目に掛り、御相談申度品々候へば、御尋仕候と申ける、〈○中略〉庄右衛門洗足致し、直に座敷へ通りけるに、膳最中にて上座に和尚居、左右相伴の客居流ける所へ、庄右衛門申けるは、私儀は奥州仙台釘子村庄右衛門と申者に御座候が、廿三年以前坂にて、此家の亭主お我が手にかけて殺ける間、御子孫之御方に討れ申度、はる〴〵尋罷出候間、何も様御取計ひ下されかしと頼入ける、和尚始め皆々驚入興さめ、しばし無言に扣ける所、和尚答て、亭主弥五郎お呼て申されけるは、偖今日仏弥兵衛お手にかけ殺けるものゝよしにて、其方に敵お討れ度、遠国より尋来る事に候所、古今希なるかよふの義は、命お助るも、今日仏事追善に相成り候間、たすけ遣すべしと申されければ、弥五郎何れ御膳も相過し、焼香相勤御答可申上と挨拶有けるに、扠焼香も相勤、和尚並に客人も止り居、弥五郎に向ひ、和尚申されけるは、扠又其方親弥兵衛廿三廻忌に当り、敵と名乗りはる〴〵尋来る事、古今だめしなき事なり、さすれば命お助け遣すも第一の追善なり、仏道にも十惡の極罪人も、ほつ心に至れば、是おゆるすと有、きう鳥ふところに入時は、かりう人も是お取らずと有、然れば助るは第一の追善也と申されければ、弥五郎申けるは、御猶には候へども、主と親の敵は共に天おいたゞかずと承り、子として父の敵、草の葉お分ても其儘討ざるは、第一の不孝と存じ候間、是非に討て父の讐お復したしとて、中々承引なし、和尚お始め面々も不及是非に、敵討に定りける、最早夜ふけに至りければ、明日家の後の川原にて本望とげべしとて定りける、翌日弥五郎支度お堅め、脇差携出、庄右衛門にむかひ、支度被致候はゞ立合給へと申ければ、私儀は立合て勝負おとげ申身には無之、御自分の心まかせに討るゝ身分に候へば、何の支度も無之と申ける、〈○中略〉和尚横手お打、扠は左様なるか、其元はぎ取候者は、此家亭主弥兵衛が実弟にて、若年より惡性者にて、終に盗賊と成りて命お失ひける者なり、然れば弟の身代りに立て、兄弥兵衛は其元の手に掛り果ける者也、さすれば此方より求たる惡事にて、敵お討べき道理なし、さるによつて昨日よりかよふのいん縁もあるべきか扣ける、よふ申含たり、此上は敵討に不及とて、何も口々に申けり、弥五郎も面目お失ひ止みにけり、〈○下略〉