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栄花物語
十五/疑
殿の御まへ、〈○藤原道長〉世しりはじめさせ給ひてのち、御門は三代にならせ給、わが御世は廿三四年ばかりにならせ給に、みかどわかうおはしますときは、摂政と申、おとなびさせ給おりは、関白と申て、おはしますに、このごろ摂政おも御一男たゞいまの内大臣〈○頼通〉に譲きこえさせ給て、わが御身は、太政大臣の位にておはしますお、〈○中略〉かゝる程に、御心ちれいならずおぼさるれば、〈○中略〉いかに〳〵とのみ覚しなげかせ給、御物のけどもいとおどろ〳〵しう申すと、れいのことなり、おほやけわたくしのだいじ、たゞいまこれよりほかは、なに事かはとみへたり、禅林寺の僧正などみなおはす、とのゝ御前さらにいのちおしくも侍らず、さき〴〵世おまつりごち給人々おほかる中に、おのればかりさるべき事どもしたるためしはなくなん、東宮おはします、み所の后〈○一条天皇中宮彰子、三条天皇中宮妍子、後一絛天皇皇后威子、〉院〈○小一条院敦明親王〉のにやうご、おはす、たゞいま内大臣にて摂政〈○頼通〉つかまつる、又大納言にて左大将〈○教通〉かけたり、又大なごん、〈○頼宗〉あるは左衛門督にて別当かけ、〈○能信〉この〈○の原脱、依一本補、〉おのこの位〈○長家〉ぞいとあさけれど、三位中将にてはべり、みなこれつぎ〳〵おほやけの御うしろみおつかうまつる、みづから太政大臣准三后のくらいにて侍り、この廿余年ならぶ人なくて、あまたの御門の御うしろみおつかうまつるに、ことなるなむなくてすぎ侍ぬ、おのが先祖の貞信公、いみじうおはしたる人、我太政大臣にて、太郎小野宮〈○実頼〉のおとゞ、二郎右大臣、〈○師輔〉四郎、〈○師氏〉五郎〈○師尹〉こそは、大納言などにてさしならび給へりけれど、后たち給はずなりにけり、ちかうは九条のおとゞ、〈○師輔〉わが御身は、右大臣にて、やみ給へれど、おほ后〈○安子〉の御はらの、冷泉院円融院さしつゞきおはしまし、十一人のおのこゞの中に、五人〈○伊尹、兼通、兼家、為光、公季、〉太政大臣になり給へり、いまにいみじき御さいはひなりかし、されば后三ところたち給へるためしは、この国にはまたなきこと也など、よにめでたき御ありさまおいひつゞけさせ給、ことし五十四なり、しぬともさらにはぢあるまじ、いまゆくすえも、かばかりのことはありがたくやあらん、あかぬ事は、尚侍〈○嬉子〉東宮〈○後朱雀〉にたてまつり、皇太后宮の一品宮〈○禎子〉の子御事、このふたことおせずなりぬるこそあれど、大みや〈○彰子〉おはしまし、摂政のおとゞいますかれば、さりともとし給事ありなんと、いひつゞけさせ給、