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源平盛衰記

清盛捕化鳥並一族官位昇進事
清盛安芸守と申しヽ時、保元元年、左大臣謀叛の時、ことなる賞ありて、同年七月十一日、安芸守より播磨守に移り、同八月十日、任太宰大弐、平治元年、信頼卿謀叛之時、勲功ありて、同年十二月廿七日に、経盛伊賀守、頼盛尾張守、宗盛遠江守、重盛伊予守、教盛越中守、基盛任左衛門佐、永暦元年に、正三位して参議に拝す、同二年、右衛們督、撿非違使別当、権中納言に任ず、長完三年に、権大納言に至り、仁安元年、内大臣兼に任ず、宣旨並に饗禄なりけれども、忠義公の例とぞ聞えし、同二年に、太政大臣に上る、左右お経ずして此の位に至る事、九条大相国信長公の外、総じて先従なし、大将にあらねども、兵仗お賜ひて随身お召し具して、執政の人の如し、輦車に乗て宮中お出入す、偏に女御入内の儀式なり、太政大臣は、訓導の礼重く、儀刑の寄深ければ、地勢大なりといへども、賢慮足らざるものは、其仁に当ることなし、天才高しと雖ども、政理明ならざるものは、猶其器にあらず、其人に非ざれば黷すべき宮にあらざれども、一天の安危身に由り、万機の理乱、掌に在りければ、子細に及ばず、親子兄弟大国お賜はり、兼官重職に任じける、上三品の階級に至るまで、九代の先従お越、角栄えける、ゆヽしき事と思ひし程に、清盛、仁安三年十一月十一日、歳五十一にて重病に侵され、存命の為に忽に出家入道す、法名は静海なり、其験にや宿病立ところに愈て、天命お全くす、人の従ひ付事は、吹風草木お靡すが如く、世の偏く仰ぐ事、ふる雨の国土お潤すに異ならず、されば六波羅殿の御一家の公達と雲てければ、花族も英才も面お向へ肩お並ぶる人なかりけり、太政入道の小舅に、平大納言時忠卿の常の言に、此一門にあらぬものは、男も女も、尼法師も人非人とぞ申されける、かヽりければ、如何なる人も相構へて、其一門其ゆかりにむすぼれんとぞしける、昔呉王好剣客、百姓多瘢瘡、楚王好細腰、宮中多餓死、城中好広眉、四方且半額、城中好大袖、四方用匹帛、と雲ふ事あり、されば烏帽子のためやう、衣紋のかヽりより始めて、何事も六波羅様と雲らければ、天下の人皆之お学び、之に従ひけり、如何なる賢王聖主の御政おも、摂政関白の成敗なれども、何となく世にあまされたる徒者なしと、謗り傾け申すことは常の習ぞかし、されども此の入道の世の間は、聊もゆるかせに申すものなかりけり、〈○下略〉