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明良洪範
二十二
秀吉公或時近臣に語られしは、我は尾州の民間より出たれば、草苅すべおば知りたれども、筆取事はえ知らず、今不慮に雲の上の交おなす、但し我母若き時に、内裏の御厨子所の下女たりしが、玉体に近付奉りし事あり、其夜の夢に、幾千万の御祓箱、伊勢より播磨へ、透間もなく空お飛行と見つるお、又ちはやぶる神のみてくら手にとりてと雲歌お、夢中に感じて、我お懐妊せられ候、此夢うれひあひぬと覚めて、信長公よりゆるされて、播州に発向し、即時に討平にげ、夫より中国にかヽりて、毛利と先陣せし時に、明智が乱お告来る故、時日お移さず討て上り、主君の怨敵たる明智お亡し、紫野に於て公の葬送お執行し、朝廷に請て御贈官おなし奉り、一宇お建立して御位牌お崇めし、此等の冥加にや、今我思はずも貴身となりぬ、されども土民なれば氏性なし、草苅のなり上りたる身なれば、古鎌足子大臣の御名およすがに、藤原氏おや免されんと、此、事申されしかば、いとやすき事なりとて、近衛殿より其御計らひ有し、九条禅閤殿下公、稙道聞し召して、摂家は何れも隔なしといへども、長者は当家の事なれば、近衛殿の御まヽには成べからずと仰せ有しお、秀吉聞玉ひて、物知りの申さるヽ事なれば、子細こそ有べけれとて、徳善院玄意に命じて、近衛殿九条殿両所お大徳寺に請じ申して、其相論お聞玉ひしに、嫡庶の流、旧記及び伝来の重器、近衛家の鎌、九条家の大織冠の真影、恵亮の法華経に狐丸の太刀、及び三代の名記等、さま〴〵有しとなん、互に争ひいどみ給ひければ、秀吉聞玉ひて、左様に耳遠き争ひ、むつかしき藤原のつる葉ならんよりは、思ひ付して、今迄なき氏になりて、我右大臣と密に議して上奏し、豊臣朝臣と雲新姓お勅許ありけり、