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続応仁後記

畿内近国一揆所々騒動事
同年〈○享禄五年〉の秋、和州の一揆等勃興して、当国高取の城お攻けれども、城主越智の某、随分防戦て、終に一揆お追払ふ、同十月、南都の町中一揆お企て、僧房お焼立ければ、南房より此返報とて、又町中お焼払ふ、一揆の大将は、一向宗の門徒雁金屋願了、同余五郎と雲者也、角て当国宇多郡吉野、伊賀国名張の一揆等悉組合て、伊勢国え乱入す、国司北畠晴具是お防ぎ留んと有けるに、老臣等思案して、懸る賎き土民の奴原、当家歷々の侍計お差向て、防かすべき事、本意に非ず、其損寡からずとて、当国山田の庄の穢多非人お相催し、乞食多勢に、紙小旗お差連させ、其旗一様に穢多と雲字お書付て、武士の真先え押立、進ませける程に、流石和州の一揆共も、此小旗の文字お見て、いかなる賤き我々にても、穢多非人お相手にし、合戦は成まじとて、其より散々に成ける処お、先の穢多お押除て、跡より武士共進出、一揆お追駆追詰て、悉く討捕退治しけり、