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発心集

貧男差図おこのむ事
ちかき世の事にや、としはたかくて、まづしくわりなきおとこありけり、つかさなどありける者なりけれど、出つかふるたづきもなし、さすがにふるめかしき心にて、あやしきふるまひなどは思ひよらず、世執なきにもあらねば、又かしらおろさんと思ふ心もなかうけう、つねにはいどこうもなくて、ふる堂のやぶれたるにぞやどりたりける、つく〴〵ととし月おおくるあひだに、朝夕するわざとては、人にかみほんぐなどこひあつめ、いくらもさしづおかきて、家つくるべきあらましおす寝殿はしか〴〵、門はなにかとなど、これお思ひはからひつゝ、つきせぬあらましにこゝろおなぐさめて過ければ、見きく人はいみじき事のためしになんいひける、まことにあるまじきことおたくみたるは、はかなけれど、よく〳〵思へば、此世のたのしみには、こゝろおなぐさむるにしかず、一二町おつくりみてたる家とても、これおいひ思ひならはせる人めこそあれ、まことにはわが身のおきふすところは、一二間にすぎず、その外はみなしたしきうとき人のいどころのため、もしは野山にすむべきうし馬のれうおさへつくりおくにはあらずや、かくよしなきことに、身おわづらはし、こゝろおくるしめて、百千年あらんために、材木おえらび、ひはだかはらお、玉、かゝみとみがきたてゝ、何のせんかはある、主のいのちあだなれば、すむ事久しからず、あるひは他人のすみかとなり、あるひは風にやぶれ、雨にくちぬ、いはむや一度火事出きぬる時、とし月のいとなみ、片時のあひだに、雲けぶりとなりぬるおや、しかあるお、かのおとこがあらましの家は、はしりもとめ、つくりみがくわづらひもなし、雨風にもやぶれず、火災のおそれもなし、なすところは、わづかに一紙なれど、心おやどすにふそくなし、りうじゆぼさつのたまひける事ありといへども、ねがうこゝろやまねば、まづしき人とす、まづしけれども、もとむることなければ、とめりとすと侍り、〈○下略〉