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五月雨草紙
文化の頃は、米穀の価賤き故、お旗本の士は、貧窮の人のみ多かりき、多気安元は、医学館の督事にて、侍医法印なりしが、然も家道甚窮して、屋宇の修理さへ出来ざりしかば、雨の降る折、家の中悉く漏り、傘おさして食事お喫せし事度々ありし由、ある年の暮に、金子払底にて、諸払方出来申さず、駕籠の包替せし職工の来りて、催促したるが、若し金子お渡し無ぐば、駕籠の戸おはづし、持帰るべくと申たる所、法印二念に及ばず、元日の登城に戸なく共苦しからず、金子は何分調ひ申さず迚、其儘に書およみありしが、元朝果して戸なき駕寵にて、登城されしよし、