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源平盛衰記
十二
行隆被召出事
前左少弁行隆と申人御座けり、故中納言顕時卿の長男にて御座しが、二条院の御代に近召仕れ奉て、弁に成給へりし時も、右少弁長方お越て左に加り給へり、五位正上し給へりし中にも、顕要の人八人お越などして、優々しかりしが、二条院に奉後て時お失へり、仁安元年四月六日より官お止られて籠居し給しより、永く前途お失て、十五年の春秋お送つヽ、夏冬の更衣も力なく、朝暮の食事も心に協はで、悲の涙お流し、明し暮させ給けり、十六日の狭夜更る程に、太政入道殿より使とて急ぎ立寄給へ、可申合事ありと、事々敷雲ければ、行隆何事やらんと、うつヽ心なく騒給へり、此十五年の間、何事も相綺事なし、身に取て覚る事はなけれ共上下事にあふ折節なれば、若謀反などに与する由、人の讒言に依て、成親卿の被引張し様にやと振わななき、思はぬ事もなく思はれけれ共、何様にも行向てこそ、兎にも角にも機嫌に随はめと思て、憖に参すべき由返事はし給たりけれ共、装束牛車もなかりければ、弟の前左衛門権佐時光の許へ、係る事と歎遣したりければ、牛車雑色装束ども、急ぎ遣したり、軈て取乗て出給ふ、北方より子息家人に至まで、何事にかと肝心お迷て泣悲、左右なく出給べからず、よく〳〵世間おもきヽ、太政入道の気色おも伺給てこそと、口々に申けり、理也、上臘下臘罪科せられて、東国西国被流遣折節なれば、留め申さるヽも道理也、行隆は不参ば、中々様がましヽとて、西八条へ御座しつヽ、車より下、わなヽくわなヽく中門の廊に居給へり、入道やがて出合、見参して宣けるは、故中納言殿も親く御座上、残に憑奉る大小事、申合進候き、其御名残とてましませば、疎にも不奉思、御籠居久く成おも、歎存侍しかども、法皇の御計なれば力及ばず過ぬ、今は疾々御出仕有べしと宣ければ、左も右も御計に随ひ奉べしとて、ほくそ咲て出られぬ、宿所に還て入道のかくいはれつると語給へば、北方より始て、出給つる心苦しさに、今は皆泣笑して喜合給へり、後朝に源大夫判官季貞お使として、小八葉の車に入道殿の秘蔵の牛係て、牛飼の装束相具し、百石の米、百匹の絹、被送遣ける上に、今日軈弁に奉成返と有ければ、大形嬉などは雲計なし、手の舞足の蹈所お忘たり、被免出仕だにも有難きに、さしも貧しかりつる家中に、百石百匹牛車お見廻し給ひけん心中、唯推量べし、一門の人々も馳集、家中の者ども寄合て、酒宴歓楽しても、抑是は夢かや夢かやとぞ雲ける、