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明良洪範
十九
稲葉美濃守老職お勤仕せられし時は、浪人者玄関へ来る、取次の者へ申し入けるは、私こそ浪人にて、久々困窮仕に、今は餓死にも及ぶべく候仕儀に相なり候、御家お見かけ推参仕り候、何とぞ御芳志お以て、金子百両拝借仰せ付られ下され候らへと、誠に余儀無体に申しける、役人どもの取計ひにても相済がたく、又は一と通りの事にて立かへるべき様子には見へざる故、待せ置、退出の節、美濃守へ申し聞かせしに、暫らく了簡せられ、先料理お振まひ申すべきよしにて出されける、其間に馬廻りの士に、安原市左衛門とて百石お領し、日々供に召連し者お呼で、件の老人帰り候はゞ、見へ隠れに付添参り、住所お見届け帰るべしと申し付られ、市左衛門は早々宿所にて旅仕度し、菅笠草鞋にて、玄関の腰かけに出て、彼者の帰るお待居たり、其後美濃守差図にて、白銀五枚台にすへて、少分ながら是お給はる由お申しけるに、浪人謹で頂戴し、厚く謝詞お述て立出けり、門お出ると、かねて待居たる市左衛門引つゞき行て、浪人が袖お扣へて、美濃守申し付候は、貴殿の居所お見届け候様にとの儀にて、此如用意致し候、何国迄も御供申すべくと雲ひ、浪人も甚迷惑せし体にて、様々辞しけれども、市左衛門承引せず、日も暮候間、一刻も早く帰り給ふべし、加様に支度致す上は、たとひ長崎迄も参り見届申すべしと雲に、浪人も詮方なくて、浅草寺町の寺号お申し、我等は其寺に罷り在者にて候、其段仰上られ候らへといへども、左候らはゞ、其寺へ参り候上にて、主人へ申し聞べしと追立行程に、間もなく右の寺に到りて入りければ、坊主ども、此間は御出もなく候、如何なされ候やと挨拶す、市左衛門は土間に居て、主客の応答お目もはなさず聞居たれば、浪人すべき様なくして、そこお立出しに、はや夕方なり、市左衛門申し候は、此寺は御宿所の由申され候らへども、隻今出家の挨拶は相違致し候、日も暮候まゝ、片時も早く帰宅あるべし是非見屈け申さず候ては、主人へ申し訳これなしといへば、浪人扠も是非なき次第にて候、我等が宅と申すは、中々御目にかくべき様もなく、真の乞食小屋にてもかくは有まじき体に候らへば、辞退申し候なり、此段御聞届け下さるべくと雲、市左衛門きゝて、侍の浮沈は珍らしからず候らへども、少しも恥とは申さず候、急ぎ給ふべしとて行程に、千住のはりつけ場お過て、かすかに灯の光り見へしに、あの火の見ゆる所にて候と雲、いよ〳〵いそぎ給へ迚、行つきて見れば、実にあはれなる筵張の厠とも雲べき稈なる、ちいさき藁屋のかけむしろお上て内に入、今帰りしと雲に、御帰り候かと答ふ、市左衛門も続ひて内に入りけるに、何条乞食とは見へず、其様子侍の貧窮極し体に紛れなく、内居たる女も、挨拶の様子女と雲べき体なり、火お焚き居たるが、馬の沓お焚たり、市左衛門よく〳〵見届け、自分の姓名お望みしに依て名乗りける、夫より帰りて委細申し述しに、美濃守聞て、旅仕度にて連立たる段々の仕かた、心掛殊に感じありけり、段々立身して、三年目には三百石に成、小姓頭お勤めける、或時市左衛門が上屋敷の長屋へ侍来り、御目に掛り度由お申す、其体四五百石の身上と見ゆる由お申す、其姓名は聊か覚なしと雲ども、通し候へとて坐しきに入り、出向ひたれども、面おも覚えず、見知りたる様にもあれど、覚束なき由お雲時に、客の曰、御見忘は御猶なりとて、先年の事ども申し出し、御主人様の御式台へ参上仕り、理不尽なる御無心申し上候、完仁なる御恩お以て、身命おつなぎ、隻今は三百石にあり付、有がたき仕合にて候、御式台は憚り多く存じ奉り候間、冥加のために、貴殿まで参上仕候迚ぞ帰りける、美濃守にも、百両の金子拝借仕度と申したる所、盗賊とは思はれす、全く浪人の難儀にせまりたるものと思はれて、憐愍ありし事なりと、家来の物語りなり、