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徒然草

ある大福長者(○○○○)のいはく、人はよろづおさしおきて、ひたぶるに徳おつくべきなり、貧しぐては生けるかひなし、富めるのみお人とす、徳おつかんとおもはゞ、すべからくまづその心づかひお修行すべし、その心といふは他の事にあらず、人間常住のおもひに住して、仮にも無常お観ずることなかれ、これ第一の用心なり、次に万事の用おかなふべからず、人の世にある自他につけて所願無量なり、欲に従ひて志お遂げんとおもはゞ、百万の銭ありといふとも、しばらくも住すべがらず、所願は止むときなし、財は尽くる期あり、かぎりある財おもちて、かぎりなき願に従ふこと得べからず、所願心にきざすことあらば、我おほろぼすべき惡念きたれりと、かたく慎みおそれて、小用おもなすべからず、次に銭お奴の如くして、つかひ用いるものとしらば、長く貧苦お免るべからず、君の如く神のごとくおそれたまふとみて、従へ用いることなかれ、次に恥に臨むといふとも、怒り怨むることなかれ、次に正直にして約おかたくすべし、この義お守りて、利おもとめん人は、富のきたること、火のかわけるに就き、水の下れるに従ふがごとくなるべし、銭つもりてつきざるときは、宴飲声色おことゝせず、居所おかざらず、所願お成ぜれども、心とこしなへに安く楽しと申しき、そも〳〵人は所願お成ぜんがために財おももとむ、銭おたからとすることは、願おかなふるがゆえなり、所願あれどもかなへず、銭あれども用いざらんは、全く貧者とおなじ、何おか楽とせん、このおきては、たゞ人間の望お絶ちて、貧お憂ふべからずときこえたり、欲おなして楽とせんよりは、しかじ財なからんには、癰疽お病むもの、水に洗ひて楽とせんよりは、病まざらんにはしかじ、こゝにいたりては、貧富分くところなし、究竟は理即にひとし、大欲は無欲に似たり、