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翁草

越後屋八郎右衛門成立之事
昔は上方三拾六人の御代官より、御金納とて、飛脚お以、江戸へ通る、仍道中人馬の御用繁く、駅々難義たるお見て、出目の某といふ者、此人馬の費お止め、公儀の御為も宜く、亦請負居る者も、利潤お得る仕形お巧出して、六十日為替と雲事お目論見、公儀〈江〉願ふ、此仕形は御代官より、上方にて金子お受取、六十日目に江戸へ納る事也、猶六十日の遅滞有と雲へ共、道中人馬費なく、請負人は右日数の間に遊び金お廻し、其間の利徳又火し、如斯積て願ひしに、公儀御評定之間に、願主不幸にして病死す、続て相願ふ者もなく、此上一旦空敷廃れし処に、越後屋八郎右衛門と雲者、〈○中略〉三井三郎右衛門と雲町人の手代成しが、此願主に少し由緒有ければ、願ひの跡お起して、再び相願ふ、元来済居たる願ゆへに、早速八郎右衛門に仰付らる、是に仍て、駿河町に店お構へ、亦京都にも店お拵て、代官衆より上納の金子お京都にて請取、夫より呉服反物お仕込、三度飛脚にて江戸に下し、売上て其金お以、御役所へ上納す、如此手法にて、江戸において現金掛直なしと雲事お始、外々呉服店より格別下直に売出せば、是迄斯様の店は無し、殊外珍敷、次第に評判よろしく、買人日に増て多く集て、山の如くの代呂物も、暫時に売きれば、段々いやが上に荷物お下し、手広く商ふゆへ、六十日の間に、二三度も往来の利分お取、上納聊不滞ば、公儀表の首尾も宜く、次第々々に分限富裕の身と成る、因滋三け津は申すに不及、諸国城下々々賑しき所には、出店お不置と雲ふ事なし、呉服物に限らず、万物お商ふ、当時此子孫代々相続して、主人三郎右衛門が苗字お囉ひ、三つ井と称し、又越後屋と雲、兄弟の家、六つに分れ、諸国の出店誰渠が持分といふ事なく、六人に総持にして、損徳共に六つ割にして、一己の商にせず、仍過分の利潤もなく、又家の潰るゝ程の損もなし、手代もいづれの支配といふ事なく、江戸にては六人の番頭ありて、駿河町は申すに不及、所々の店お支配し、一向日々の商には不拘、月に六度会合お究め置て、会所へ重立候者共集り、諸店商之事お評議す、京都六人の主人は、一け年何程と分量お究め、日用並に台所の賄相渡す、是れより余慶渡す事お堅く禁止す、仍て旦那分六人の者共も、万心に任せず、手代とも同様に、幼少より店へ出きて、商お見習ひ勤めて、聊華奢おなす事不協、もし其法お破るものは、忽ち押込隠居おさせて、六人の名前お除く、此六つの名前は、八郎右衛門と雲お始として、各役名の如く、八郎右衛門隠居或は死失すれば、次座八郎兵衛、三郎助等より、八郎右衛門に成り、段々跡もくり上て、名お改め、仮令続きは遠く成ても、当時の八郎右衛門お総領とし、二男三男と、格お定めて、篤く因む事、誠に兄弟の如し、主人分の家より、替る〳〵勤之、町家たりといへ共、規矩正しき家風故、当時に至て、聊も衰廃の色なし、
因に曰、近世大い丸と称する者有り、其濫觴は、伏見京町、大文字屋彦右衛門と雲ふ小商人、古手類お商ひて、常に洛に往来するに、路傍一の橋にある滝尾の社に、ぬかづいて、我千人の頭とならば、宮居お修補し、祭祀お悃にせんと祈誓す、頃は享保の中頃、尾陽の黄門君、華奢風流お好給ひ、名古屋の町に、遊廓芝居等お構られ、木曾山材木の上品お以、費お厭はず、是お営み、上み方よりあらゆる妓女役者の類お抱集め、其壮観宛も三け津の繁栄に超たり、〈○中略〉斯る繁昌お聞伝へ、他邦の商人、吾も〳〵と此地江入込むもの少なからず、大彦時お得たりと、僅に拾貫目の元手お以て色々の良策お廻らす、先づ尾陽へ越さんと欲するの初め、京都二条通の薬店、井筒屋九兵衛と雲ふ富裕の者、尾州に店有て、常に荷物お運送す、其衛府に、丸の内に大の字の有るお所望して雲く、予も彼地に店お構んと欲す、恨らくは身不肖なれば、道中に於て、我お不知、庶幾は足下の衛府お我等に借せ、夫お以て諸運送滞なからしめん、井九諾して、衛府お借す、自是万物に丸の内大の字お用ふ、先づ萌黄地に丸大文字の大風呂敷お火しく仕込、江府の諸商人へ知るべお求て、悉く配当す能き風呂敷なれば、是お得たるもの幸にして、我商物お此風呂敷に包て、彼地の竪横お徘徊す、是迄斯る萌黄地の大風呂敷は、見馴ざれば、江府中に目立て自ら丸大お彼地にて、見知る様に成れり、是完大の謀なり、而して先づ名古屋にて、始て大丸屋と称する新店お構へ、諸色下直に売出し商の調法、又三井共風俗替りて、讃人の請宜く、日に増て店繁昌す、援に於て、自分は京都に居おしつらひ、江都に始めて店お設るに、兼て風呂敷に目覚有大丸屋なれば古来より仕似せたる店の如く、江戸中には彼風呂敷お蒔散し置ぬれば、最初より手の広がる事、余店に超へ、万人援に群り競ふ、大阪にては、柏屋といふ潰れ店お買得して、其儘柏屋の家名お用ひて商之、三け津名古屋に、須臾の間に、其名お発し、一之橋滝尾社お結構に造立し、彦右衛門剃髪して正啓と号す、〈○下略〉