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明良洪範
十九
紀州南竜院公に仕へし奈波道円といへる大儒あり、此者の甥に奈波加慶と雲針医、御供にて紀州にありし時、和歌山一番の富家に鴻池孫右衛門といへる町人、久々煩らひ居たるに、此度奈波が来りしお幸ひと推挙せし人ありて、療治の事お頼みければ、加慶心得申したりと答へし時、頼みたる人又申しけるは、此孫右衛門は和歌山一の有徳人にて候間、外の病家よりは御精お出され、療治いたされ候らへと申しけるお、加慶とくと聞居たるが、右の者坐お立んとせし時、隻今御頼の病家へ見廻の事は御断り申すといふに、頼みたる人大に驚き、それは心得ぬ事なり、療治がある由申し入れ候は、隻今の事なり、然るに手お返す如く御断りとは、如何の思召にやと咎るに、いや初めは病人と計り、うけ玉はり候間、請合申せしに、重ねて富家なる故に、精お入療治致し申すべくとの事に候、我等今日まで病人には針お立候へども、金銀にはりお立候事は之無候ゆへ、御断り申すとぞ返答しける、誠に道円が甥なりとぞ申しける、