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折たく柴の記

むかし戸部の許に来れる老人あり、これは織田の内府入道常真に、めしつかはれしものゝ、おいしのちに世おのがれしなり、〈住倉了仁といひて、其頃八十余の人なり、〉その人我父の許に来りて、予州もとより戸部の御覚よかりしほどの人おば、ふかくうらみおもひ給ふ事なれば、その子息のふたゝびつかへにしたがひ給ふ塗開らけん事あるべからず、いとけなきより見まいらせしかば、我だに此事の心ぐるしければ、そこの心のほどおしはかりぬ、こゝに我年頃したしき富商の、男子はなくして、女子一人候なるお、しかるべき侍の子にあはせて、家ゆづらんとおもひて、我と相はかる事の候なる、あはれ子息おそれが望にまかせられんには、そこおも心やすくやしなひ給ふべき事なれ、此事聞え申さむために参れりといふ、我父の聞給ひて、こゝろざしのほど忘るべからず、息男いとけなきものにあらず、我いかにと定め申がたし、かれとあひはかり給ふべしと答給ひ、其明けの日我参りしに、かくと仰られたり、承りぬと申して、かの老人の許にゆきむかひ、そのこゝろざしの、報ずべからざる事ども謝し訖りて、思ふ所侍れば、のたまふ所にも打任せがたしといひて帰参りて、我かゝる身となる事お、御心苦しと思ひ給はん事おも、思ひ参らせぬにもあらず、又かくわびしく渡らせ給ふ事お見まいらするに、いかにかなしくは覚え侍れども、御子とうまれしものゝ、ひとの子となるべしとは思ひもかけず、かく悲しくおもふ事も、武士の家に出て仕ふる事の、かなはざる故に候ものお、我身に及びて、おやおほちの取伝へ給ひし弓矢の道おすてゝ、商人の家つぐべしともおもひ候はず、さればかくこそ答て候と申たりければ、いとうれし気におはしまして、かゝる事に至ては其人々の心にあることなれば、父子の間といふとも、いかにとも定申しがたき事なるお、よくこそ答給ひたれ、老たる父やしなふべきために、身おなきものにし給はむも、孝行といふべけれども、今聞し所のごとき、孝行の大なることはりには似るべき事にもあらず、我はじめ世おのがれしより、かゝる身にて終りなむは、もとより思ひまうけし所なり、返す返すも我事おな心苦しく思ひ給ひそと仰られけり、〈○中略〉又当時天下に双なしなどいふ富商の子の、学ぶ友となりぬる事出来しに、その子のいひしは、我父たるものゝ見まいらせて、必ず天下の大儒ともなり給ふべき御事なり我亡兄のむすめの候なるにあはせまいらせ、黄金三千円にもとめ得し宅地おもて学問の料となして、ものまなび給ふやうにと、某が心のやうに申せとこそ侍れといふ、我此事おきゝて御こゝろざしのほどわするべからず、我むかしある人の申せしことお聞しに、夏のころ霊山とかにあそびしものどもの中、池に足ひたし居けるに、小なる蛇の来りて、其足の大指お舐しきるあるが、忽に去りては、また忽に来りて舐る、かくするがうちに、其蛇やう〳〵に大さくなりしにや、後には其大指お呑むばかりになりしかば、腰よりさすがお取出して、刃のかたお上になして、大指の上にあてゝまつ、また来りて大指お呑んとする所お、あげさまにさしきりたれば、うしろざまに、飛去るほどに、家にかけ入りて障子おさす、ともないしものども、なに事にやといふ程こそあれ、石はしり木たふれて、地ふるふ事半時ばかりすぎてのちに、障子おほそめにあけて見けるに、一丈余の大蛇の、唇の上より頭のかたまで、一尺余きられたるが、たふれ死したりといふ事あり、その事ありやなしやは、いまだ知らねど、今のたまふことに似たる所の侍るなり、初め其蛇の小しきなりし程は、わづかにさすがおもてさしきりし所なるが、すでに大きくなりしに至りては、一尺余りの疵とは成りしなり、今我身まづしく窮りたれば、人知れるものにもあらず、此身のまゝにて、そこの亡兄のあとお承け継ぎなむには、その疵なほ小しきなるべし、もしのたまふ所のごとく、世にしらるべきほどの儒生ともなりなんには、その疵は殊に大にこそなりぬべけれ、三千両の黄金おすてゝ、大疵あらむ儒生と成し立てられむ事は、謀お得給ひたりともいふべからず、たとひさしきる所の小しきなりとも、我もまた疵かうぶらん事おねがはず、我かくこそ申たれと答へ給へといひたり、後に聞けば、しかるべき儒生のその娘にはあひぐせしなり、〈その富家は河村といひし、その孫女の夫は黒川といひて、其父祖ともに儒に名ありし人なり、〉此事おも父にておはせし人に語り申ければ、めづらしからぬ事なれど、よき喩にもありつるかなと、わらひ給ひたりき、