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応仁記

乱前御晴之事
天下は破れば破よ、世間は滅ば減よ、人はともあれ、我身さへ富貴ならば、他より一段瑩美と様に振舞んと成行けり、されば若し五六年の間、一度の晴儀さへ、由々敷諸家の大儀なるに、此間打続九け度迄執行はれける、先一番に将軍家の大将の御拝賀結構、二番に完正五年三月、観世が河原猿楽、三番に同年七月、後土御門院の御即位、四番に同六年三月、花頂若王子大原野の花見の会、五番に同八月、八幡の上卿、六番に同年九月、春日御社参、七番に同十二月、大嘗会、八番に文正元年三月、伊勢御参宮、九番に花之御幸也、去れば花御覧の結構は、以百味百菓おづくり、御前の御相伴衆の著おば金お以展之、御供衆の著おば沈お以削之、金お以逆鰐口おかく、如此面々粧おのみ刷んと奔走せしまヽ、皆所領お質に置き、財宝お沽却して勤之、諸国の土民に課役おかけ、段銭棟別お譴責すれば、国々名主、百姓は、耕作おしえず、田畠お捨てヽ乞食し、足手に任て悶行、万邦の郷里村県は、大半は郊原と成にけり、鳴呼鹿苑院殿〈○足利義満〉御代に、倉役四季にかヽり、普広院殿〈○足利義教〉の御代に成、一年に十二度力ヽりける、当御代臨時の倉役とて、大嘗会の有りし十一月は九け度、十二月八け度也、