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明良洪範

其頃京都にて公家町人、総て花美に募り、種々奢侈なる事共聞えしかば、御仕置の為、老臣の中より重矩〈○板倉〉撰み出され、上京せられ、完文年中迄諸司代お勤められける、〈○中略〉其時町奉行は宮崎若狭守、雨宮対馬守也、重矩上京して、公家門跡などには目お付ず、町人お厳敷禁られし、其中に〈○中略〉難波屋十右衛門と雲富者有り、様々なる奢侈お尽けるが、町人にては面白からずとて、聖護院へ用金お多差上、家来分になり、峯入の供おしたり、歷々の士の如く供人多く召連れ、目お驚す計也、箇様事共風俗お乱し、世の害となる事故、其過怠に宇治橋の掛直しお申付られしに、早速普請出来し、巍宝珠に己が姓名お大に彫付て名聞お喜びし、此入用金、難波屋一け月の利金にも及ばざりしと也、