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源平盛衰記
三十四
法皇御歎並木曾縦逸附四十九人止官職事
木曾は法住寺殿の軍に打勝て、万事思さまなれば、今井、樋口、已下の兵共召集て、やヽ殿原、今は義仲何に成とも我心也、国王にならそとも、院にならん共、心なるべし、公卿殿上人にならんと、思はん人々は、所望すべし、乞によりてすべしなど、雲ひけるこそ浅猿けれ、先我身のならん様お思煩ふたり、国王にならんとすれば、少き童也、若く成事は協まじ、院にならんとすれば、老法師也、今更入道すべきにも非ず、摂政こそ年の程も事の様も成ぬべき者よ、今は摂政殿といへ、殿原と雲、今井四郎よに惡く思ひて、摂政殿と申進するは、大織冠の御末、藤原氏の人こそする事にて候へ、二条殿、九条殿、近衛殿など申は、彼藤原氏の御子孫也、殿は源氏の最中に御座、たやすくも左様の事宣て、春日大明神の罰蒙り給ふなと雲、さては何にか成べきと、暫く案じて、よき事あり、院の御厩の別当に成て、思ふさまに馬取のらんも所得也、とて、押て別当に成てけり、廿一四に摂政お奉止基通の御事也、近衛殿と申、其代に松殿基房御子に、権大納言師家の十三に成給けるお、内大臣に奉成、軈摂政の詔書お被下けり、折節大臣の闕なかりければ、後徳大寺左大将実定の、内大臣にて座しけるお、暫借て成給ふ、時人昔こそかるの大臣は有しに、今もかるの大臣おはしけりとぞ笑ける、加様の事は、大宮大相国伊通こそ宣ひしに、其人おはせね共、又申す人も有けり、木曾近衛殿お奉止て、師家おなし奉ける事は、松殿最愛の御女にして、形いと厳く御座けるお、女御后にもと御労り有けるに、美人の由伝聞て、木曾推て御婿に成たりける故に、御兄公とて角計ひなし進せけるとぞ聞えし、浅増き事共也、廿八日、三条中納言朝方卿以下、文官武官、諸国の受領、都合四十九人、官職お止む、其内に公卿五人とぞ聞えし、僧には権少僧都範玄、法勝寺執行安能も、所帯お被没官き、平家は四十二人お解官したりしに、木曾は四十九人の官職お止む、平家の惡行には超過せりとぞつぶやきける、