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太平記
二十六
執事兄弟奢侈事
越後守師泰〈○高〉が惡行お伝聞こそ不思議なれ、東山の枝橋と雲所に、山庄お造らんとて、此地の主お誰ぞと問に、北野の長者菅宰相在登卿の領知也と申ければ、軈て使者お立、此所お可給由お所望しけるに、菅三位使に対面して、枝橋の事、御山庄の為に承候上は、子細あるまじきにて候、但当家の父祖代々此地に墳墓おとて五輪お立、御経お奉納したる地にて候へば、彼墓じるしお他所へ移し候はん程は、御待候べしとぞ、返事おしたりける、師泰是お聞て、何条其人惜まんずる為にぞ、左様の返事おば申らん、隻其墓共皆堀崩して捨よとて、軈て人夫お五六百人遣て、山お崩し木お伐捨て地お曳に、塁々たる五輪の下に、苔に朽たる尸あり、或は芋々たる断碑の上、雨に消たる名もあり、青塚忽に破て、白楊已に枯ぬれば、旅魂幽霊何くにか吟ふらんと哀也、是お見て如何なるしれ者か仕たりけん、一首の歌お書て、引土の上にぞ立たりける、
無人のしるしの率都婆堀棄て墓なかりける家作哉、越後守此落書お見て、是は何様菅三位が所行と覚るぞ、当座の口論に事お寄て差殺せとて、大覚寺殿の御寵愛の童に、吾護殿と雲ける大力の児お語て、無是非菅三位お殺させけるこそ不便なれ、