[p.0648][p.0649]
今昔物語
三十
平定文仮借本院、侍従語第一
今昔、兵衛の佐平の定文と雲ふ人有けり、字おば平中となむ雲ける、品も不賤ず、形ち有様も美かりけり、気はひなにとも物雲ひも可咲かりければ、其の比此の平中に勝れたる者、世に無かりけり、此る者なれば、人の妻娘、何に況や、宮仕へ人は、此平中に物不被雲ぬは無くぞ有ける、而る間其の時に、本院の大臣〈○藤原時平〉と申す人御けり、其の家に侍従の君と雲若き女房有けり、形ち有様微妙くて、心ばへ可咲き宮仕へ人にてなむ有ける、平中彼の本院の大臣の御許に、常に行通ければ、此侍従が微妙き有様お聞て、年来艶ず身に替て仮借しけるお、侍従消息の返事おだに不為ければ、平中歎き詫て、消息お書て遣たりけるに、隻見つと許の二文字おだに見せ給へと絡返し、泣々くと雲ふ許に書て遣たりける、使の返事お持て返来たりければ、平中物に当て出会て、其の返事お急ぎ取て見ければ、我が消息に、見つと雲ふ二文字おだに見せ給へ、と書て遣たりつる、其の見つと雲ふ二文字お破て、薄様に押付返たる也けり、平中此れお見るに、弥よ妬く詫き事無限し、〈○中略〉然て其の後よりは、何かで此人の心疎からむ事お聞て、思ひ疎みなばやと思へども、露然様の事も不聞えねば、艶ず思ひ焦れて過ぬ程に、思ふ様、此の人此く微妙く可咲くとも、筥に為入らむ物は、我等と同様にこそ有らめ、其れお掻凉などして見ては、思ひ被疎なむと思ひ得て、の筥洗ひに行かむお伺、筥お奪取て見てしがなと思て、然る気無しにて、局の辺に伺ふ程に、年十七八許の姿様体可咲くて、髪は袙長二三寸許不足ぬ、瞿麦重の薄物の袙濃き袴、四度解無気に引き上て香染の薄物に筥お裹て、赤色紙に絵書たる扇お差隠して、局より出で行くお、極く喜く思えて、見継々々行つヽ人も不見ぬ所にて、走り寄て筥お奪つ、女の童泣々く惜めども、情無く引奪て走り去て、人も無き屋の内に入て、内差つれば、女の童は外に立て泣立てり、平中其の筥お見れば、琴漆お塗たり、裹筥の体お見るに、開けむ事も糸々惜く思えて、内は不知ず、先づ裹筥の体の人のにも不似ねば、開て見疎まむ事も糸惜くて暫不開で、守居たれども、然りとて有らむやはと思て、恐々つ筥の蓋お開たれば、丁子の香極く早う聞え、心も不得ず、恠く思て、筥の内お臨けば、薄香の色したる水半許入たり、亦大指の大さ許なる物の黄黒ばみたるが、長二三寸許にて三切許打丸がれて入たり、思ふに然にこそは有らめと思て見るに、香の艶ず馥しければ、木の端の有るお取て、中お突差して鼻に宛て聞けば、艶ず馥しき黒方の香にて有り、総べて心も不及ず、此れは世の人には非ぬ者也けりと思て、此れお見るに付ても、何かで此人に馴睦びむと思ふ心狂ふ様に付ぬ、筥お引寄せて少引飲るに、丁子の香に染返たり、亦此/木に差て取上たる物お、崎お少し嘗つれば、苦くして甘し、馥しき事無限し、平中心疾き者にて、此れお心得る様、尿とて入れたる物は、丁子お煮て、其の汁お入れたる也けり、今一つの物は、野老合せ薫お纂にひちくりて、大なる筆〓に入れて、其より出させたる也けり、此れお思ふに、此は誰も為る者は有なむ、但し此れお凉して見む物ぞと雲ふ心は付てか仕はむ、然れば様々に極たりける者の心ばせかな、世の人には非ざりけり、何でか此の人に不会では止なむと、思ひ迷ける程に、平中病付にけり、然て悩ける程に死にけり、極て益無き事也、男も女も何かに罪深かりけむ、然れば女には、強に心お不染まじき也とぞ、世の人謗けるとなむ語り伝へたるとや、