[p.0657]
明徳記

氏清〈○山名〉お御退治有べきとて、様々の御内談共有りけるお、奥州伝へ聞き給て思はれけるは、事未定ざるさきに、朝敵と成ては協べからず、暫く謀り事共の定らん程、先日の科お謝せん為に、緩怠の儀お存ぜず、短慮の状こそ不思儀なれ、其詞雲、所詮諸方の讒訴なり、一向御免お蒙ば、畏り存べき由、再三歎申されければ、御返事には不儀繁多なりと雲へども、先日の病と称して、宇治へ成申ながら、参ぜずして還御成し、緩怠常の篇に絶たり、然といへども、去難く歎申上ば、虚病お構ざる由お、告文お書、進上申、されば御免あるべき由、仰下されければ、京都は御由断有りける庭に、同〈○明徳二年〉十二月十九日暮程に、丹後の国より古山十郎満藤が代官、早馬お立申けるは、山名の播磨守こそ、当国の寺社本所領お、京方の御代官お追出し、去十七日より、自国他国の大勢共馳寄て、ひたすら合戦の用意のみならず、京都へ責上るべき企現形し候、御心得候べき由おぞ申たりける、