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保元物語

為義最後事
鎌田〈○正清〉入道〈○源為義〉の方に参、当時都には、平氏の輩権威お執て、守殿〈○源義朝〉は石の中の〓〈○〓恐蛛字誤〉とやらんの様にて御座せば、東国へ被下給候也、判官殿〈○源為義〉は先立奉らんとて、御迎に進ぜられて候とて、車差寄たれば、さらば今一度八幡へ参て、御暇乞申べかりし物おとて、南の方お伏拝ら、軈て車に乗給ふ、七条朱雀に白木の輿お舁居たり、是は輿より乗移給はん処お討奉らん支度也、〈○中略〉延景参て誠には関東御下向にては候はず、守殿宣旨お奉て、正清太刀取にて、失ひ進すべきにて候、再三歎御申候しか共、勅定重く候間、無力被申付候、心閑に御念仏候べしと申たりしかば、口惜き事哉、為義程の者おたばからずとも討せよかし、縦綸言重くして助る事こそ不協とも、など有の儘には知せぬぞ、又誠に助けんと思はヾ、我身に替てもなどか可不申宥、〈○中略〉親の様に子は思はぬ習なれば、義朝一人が非罪、隻うらめしきは此事お、始よりなど知せぬぞとて、念仏百返計となへつヽ、更に命惜む気色もなく、程経ば定て為義が頸斬る見んとて、雑人なども立込べし、疾疾切れと宣へば、〈○下略〉