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源平盛衰記
四十二
屋島合戦附玉虫立扇与一射扇事同〈○元暦二年二月〉廿日卯時に、源氏五十余騎にて、屋島の館の後より責寄て鬨お発す、平家も声お合て戦、〈○中略〉武蔵三郎左衛門尉有国、城の木戸の櫓にて、大音声お揚て、今日の大将軍は誰人ぞと問、伊勢三郎義盛歩出して、穴事も疎や、我君は是清和帝の十代後胤、八幡太郎義家に四代の孫、鎌倉右兵衛権佐殿〈○源頼朝〉御弟、九郎大夫判官殿〈○源義経〉ぞかしと雲、有国是お聞て大に嘲、故左馬頭義朝が妾、九条院雑司常葉が腹の子と名乗て、京都に安堵仕難かりしかば、金商人が従者して、蓑笠笈背負つつ、陸奥へ下し者の事にやといへば、伊勢三郎腹お立て、角申は北国砥波山の軍に負て、山に逃入、辛命生て、乞食して這々京へ上ける者也、掛忝く舌の和なる儘に、角な申しそ、さらぬだに、冥加は尽ぬる者ぞ、甲斐なき命も惜ければ、助させ給へとこそ申さそずらめと雲、有国は我君の御恩にて、若より衣食に不乏、何とて可乞食、東国者共は、党も高家も跋跪(はいつくばぐ)こそ有しが、金商人と雲おだに、舌の和なる儘と雲、況年来の重恩お忘、十善帝王に向進て惡口吐、舌は如何有べき、就中女が罵立耳はゆし、伊勢国鈴鹿関にて朝夕山立して、年貢正税追落、在々所々に打入、殺賊強盗して、妻子お養とこそ聞、其は有し事なれば、諍所なしと雲、〈○下略〉