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源平盛衰記

殿下乗会
廿二日〈○嘉応元年十月〉の朝、六波羅の門の前に、おかしき事お造物にして置けり、土器に蔓菜お高杯にもりて、折敷にすへ、五尺計なる法師の、はぎ高にかヽげたるが、左右の肩お脱て、きる物お腰に巻集、箸お取て、にたる蕪の汁お差貫きて、かわらけの汁おにらまへて立たるお造て置り、上下万人之お見れども、何心と雲事お不知、小松殿〈○平重盛〉へ人参お、係る癖物こそ候と申ければ、あヽ心憂事也、はや京中の咲はれ草に成て、作られけり〳〵、其造物こそむし物にあひて、腰がらみと雲事よ、弓矢取身は軍に合てこそ、剛おも顕し威おも振ふべき事なるに、思もよらず摂禄の臣に奉向、かかるおこがましき事仕出たれば、造物にもせられけりとぞ口惜く被仰ける、〈○中略〉
澄憲祈雨事
澄憲当初法住寺殿にて、御講の導師勧めける次に、目出説法仕たりけり、院母屋の簾の内にて、窃に大蔵卿泰経に仰けるは、此僧の若さに口のきヽたる様よ、世は末に成と雲へ共、偵尽ざりけるもの哉、実や尼の生たる子と聞食とて、咲はせ給ける時、泰経御返事に、故通憲入道は和漢の才幹至れる上、心かしこき者といはれ候き、相伴ける尼もさる尼にて、儲たる子なれば、角侍るにこそ、〈○中略〉院打うなづかせ給て、誠にも神妙に仕たりけり、此僧が高座より下りん時各はやせ、何なる風情才覚おか申振舞と仰あり、院の依御気色、若き殿上人四五人、心お合て拍子お打て、あまくだりあまくだりと拍、是は尼の生たる子と雲心おはやす也、澄憲更にそヽがずして、二かひな、三かひな舞翔て、院より始進せて、上下皆何事おか申さんと兼て咲せさせ給けり、澄憲三百人三百八と雲音お出す、殿上人猶あまくだり〳〵と拍す、澄憲三百人の其内に、女御百人、俾販公卿百人、伊勢平氏験者百人、皆乱行三百人〳〵と雲て、扇おひろげて、殿上おさヽと扇散して、皆人は母が腹より生るヽに、澄憲のみぞあまくだりけると申て、走り入にけり、公卿殿上人、上には咲けれ共、底にがにがしき景気也、〈○中略〉其跡に残留たる人々申けるは、新大納言の被申事こそ理お極て身にしみ候て覚れ、総而は君の所詮なき御心ばへにて、澄憲お愛し咲はせ給はんとて、係る述懐はせられさせ給也、さればとて一座の御導師おいかにとせさせ給べきぞ、今日より後はかる〴〵しき事、上にも下にも止らるべき也とぞ申合れける、