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源平盛衰記

小松殿教訓事
此大納言〈○藤原成親〉は余に誇て戯れ事にも無由言すごす事も有けり、後白川院の近習者に、坊門中納言親信と雲人御座けり、右京大夫信輔朝臣の子也、彼信輔武蔵守たりし時、当国に下りて儲たりけるが、元服して叙爵し給たりければ、異名に坂東大夫と申けるが、兵衛佐に成たりけるにも、猶坂兵衛など申けるお、新大納言法皇の御前にて、戯てやヽいかに親信、坂東には何事共かあると被申たりけるに、兵衛佐取敢ず、縄目の色革こそ多候へと答たりければ、大納言顔のけしき少替て、又物も宣ざりけり、此大納言は平治の乱逆の時、信頼卿に同心とて、六波羅へ被召しに、島摺の直垂著て、高手小手に縛られて、恥おさらしたりける事お思出て、縄目にそへて申たりけるにこそ、御前に人々あまた候はれける中に、按察使大納言資賢の、後に常に宣ひけるは、兵衛佐はゆゆしく返答したりしものかな、成親卿は事の外に苦りたりし事様也とぞ被申ける、されば人は聊の戯言にも、人の疵おば雲まじき事也けり、