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相州兵乱記

太田最期之事
逸政には忠臣おほく、労政には乱人多きならひなれば、上杉家の出頭人評定のともがらども、太田入道扇谷の執事とんて、万づ心に任たる事お猜み、境に著ては吹毛の咎お争て、讒言しける事度々なり、然れども扇谷殿〈定政〉道灌無ては、誰れか天下の乱お静むる者可有とだにことなく被思ければ、少々の咎おば耳にも不聞入、隻佞人讒者の世お乱べきおぞ悲み給ふ間、道灌の出頭も弥めづらかなり、かヽる処に、道灌江戸川越の城お構へ、其普請に心お労して無障かぞしかば、久く出仕もせざりければ、かの讒臣どもよき隙なりと悦び、道灌父子山内殿お対治すべき為に、要害お構へ候条無疑と申上ける間、山の内より此事お扇谷へ如何にと談合ある、定政大きに驚き、事まことならば、是一家不和の基ひ、国土乱逆の端たるべしと、度々専使お被下しかば、道灌父子差竪子不足与謀、近年当家に無才庸愚の者も政務おあらそひ、讒言真お乱すなれば、才者の糺明もあるべからず、隻忠功の下に死お賜て、衰老の尸お曝さんこと、何の傷かあるべきとて、兎角の陣謝に及ばず、依之讒言しきりなりければ、文明十八年七月廿六日、扇谷殿定政相州糟谷へ御馬お被立、道灌お対治し給ふ、山内殿顕定も鉢形の城より御加勢として、高見原まで旗お出されたり、去程に道灌入道打て出たりしお、鑓にて突落し、首おとらんとしければ、道灌其鑓の柄にとり付て、
かヽる時さこそ命の惜からめか子て無身と思ひしらずば、唯忠のみ有、咎なかりつる道灌、一朝に讒言せられて、百年の命お失ふ、