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清正朝鮮記
石田治部少輔、加藤主計頭清正お讃言仕に付て、太閤御腹立にて、主計頭に切腹可被仰付との儀にて、日本へ被召寄候事、付二の伝奏、日本来朝の事、石田治部少輔、大谷刑部少輔、増田右衛門尉おさきとして、奉行衆の分は太閤よりめし候て、帰朝つかまつられ、大坂に被居候治部少輔と、清正中あしく御座候へば、いろ〳〵讒言被仕候と聞え申候、其個条は、清正今度高麗にて手柄も仕候へども、太閤様より今度高麗一方の御先手被仰付候小西摂津守行長お、日本さかひの浦の商人にて御座候などゝ申候、我身は無御免に豊臣の朝臣などゝ、北京大王への勅答につかまつり、あまつさへ、今度異国本朝の御和睦の儀お、小西摂津守才覚おもつて相調、唐よりも日本へ御貢おおさめ候はんとの儀にて、異国本朝和平の勅使まいり候、其一の伝奏お、主計頭内の三宅角左衛門と申もの、おいはぎお以狼籍之段、前代未聞、不謂儀どもに候通、折々太閤へ被申成候て、北京大王への勅答の返書お持参被仕、太閤被懸御目候、それにつき太閤御諚には、扠々にくき主計めがしやうかな、何ぞや大唐の大王への勅答に、小西ほどなるものお、日本よりの先手に仕立遣候ものお、町人などゝ申候こと、日本の外聞と申、太閤が目きゝお蔑如仕と申、一方ならざる曲事、不及是非、そのうへ御免も不被成に、豊臣朝臣などゝ書候事、言語道断さたのかぎりに候、其外勅使おおいはぎ仕候段、何も重科不軽とて、御腹立あつて、いそぎ清正お日本へ被召寄、切腹可被仰付との儀にて、主計頭お日本へ被召寄候事、〈○中略〉
太閤清正へ御対面之事
付清正科無之段、直に被申開事 付清正に豊臣の氏おたまはり、十万余騎の大将に被仰付、重て高麗渡海の事、
一其後御城へ出仕被仕候、〈○中略〉太閤御なみだおながされ御諚候は、扠々太閤によくにたるやつめかな、かれがうしろひもの時より、我々がひざの上にてそだち、身が謀およく見置候て、其まま太閤が分別のごとくににせ候、主計めは、われ〳〵ためには、ちかきしんるいにて候、されどもあまりあらものにて、人からかいお、ちいさき時より仕候に付て、しんるいなのりおいまに不仕候と、家康利家にむかつて、秀吉公被仰候、其時清正又被申上候は、ついでながら、家康利家被仰上、御系図お、くだされ候やうに奉頼通申上られ候へば、太閤被仰候は、おのれめは、もとよりわれ〳〵ちかき親類にて、豊臣朝臣にて候間、自今以後は豊臣朝臣と書候へと、被仰出候、かくのごとく残所なく直に申ひらかれ候て、清正朝鮮中の粉骨お被尽候段、具に達上聞候、