[p.0703][p.0704]
平家物語

額うち論の事
さるほどにおなじ七月〈○永万元年〉二十七日、上皇〈○二条〉ついにかうぎよなりぬ、〈○中略〉御さうそうの夜、延暦興福両寺の大衆、がくうちろんといふ事おし出して、たひがにらうぜきにおよぶ、一天の君ほうぎよ成て後、御むしよへわたしたてまつる時のさほうは、南北二凉の大衆、こ己〴〵く供奉して、御む所のめぐりに、我が寺々のがくおうつ事有けり、まづしやうむてんわうの御ぐはんあらそふべき寺なければ、東大寺のがくおうつ、つぎにたんかいこう〈○藤原不比等〉の御ぐはんとて、興福寺のがくおうつ、北京には興福寺に向へて、延暦寺のがくおうつ、次に天武天皇の御ぐはん、教待和尚、智証大師のさう〳〵とて、園城寺のがくおうつ、しかるお山門の大衆、いかゞおもひけん、ぜんれいおそむひて、東大寺のつぎ、興福寺のうへに、延暦寺のがくお打あひだ、南都の大しゆ、とやせまし、かうやせましと、せんぎするところに、こゝに興福寺のさいこうだうじゆ、くはんおんばう、せいしばうとて、聞えたる大あくそう二人ありけり、くはんおんばうはくろいとおとしのはらまきに、しらえのなぎなたくきみじかにとり、せいしばうは、もよぎおどしのようひき、こくしつの大だち持て、二人つとはしり出、延暦寺のがくおきつて、おとし、さん〴〵にうちわり、うれしや水、なるはたきの水、日はてるともたえずとうたへと、はやしつゝ、南都のしゆとの中へぞ入にける、
清水えんじやうの事
山門の大しゆらうぜきおいたさば、てむかひすべきところにごゝろふかう、ねらうかたもや有けん、一ことばもいださず、〈○中略〉おなじき二十九日の午こくばかり、山門の大衆おびたゞしう下らくすと聞えしかば、〈○中略〉され共山門の大しゆ六波羅へは寄ずして、そゞうなる清水寺におし寄て、仏閣僧ばう一宇も残さず皆やきはらふ、是はさんぬる御さうそうの夜の、くはいけいのはちおきよめんがためとぞ聞えし、清水寺はこうぶくじの末寺たるによつてなり、