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蝦夷は、えみし、又えびすと雲ひ、後又えぞとも雲ふ、東北の夷にして、遠きものお都加留(つがる)と雲ひ、次お麁蝦夷と雲ひ、近きものお熟蝦夷と雲ふ、並に勇悍強暴にして射お善くし、好みて劫盗お為す、超捷飛禽の如し、俗皆文身椎髻にして、君長無く、冬は入りて穴に住し、夏は出でヽ樔に居り、常に鳥獣お射て食と為し、其羽皮お衣る、初め陸奥及び北越等の辺地に雑居す、其陸奥に住するものお陸奥蝦夷、又は東蝦夷と雲ひ、北越に住するものお越蝦夷、又は北蝦夷と雲ふ、元明天皇和銅元年、越後国に新に出羽郡お建て、五年始て出羽国お置く、是より越蝦夷お出羽蝦夷と称せり、
蝦夷の事の我史乗に見えたるは、神武天皇の朝お以て始とす、崇神天皇十年、大彦命、武渟川別命お東北に遣して、蝦夷お治平せしむ、景行天皇二十五年、武内宿禰お遣して、東方国土風俗お巡察せしむ、尋で四十年、東夷大に叛して辺境騒然たりしかば、皇子日本武尊お遣して征せしむ、斉明天皇四年、阿倍比羅夫、舟師一百八十艘お率いて蝦夷お追擊し、渡島に渡りて、後方羊蹄お以て政所と為す、光仁天皇宝亀五年、蝦夷野心お悛めず、復た辺境に侵入し、良民お殺略したりしかば、大伴駿河麻呂おして之お征せしむ、其後反乱征討相継ぎて起り、桓武天皇延暦二十年、及び同二十三年には征夷大将軍坂上田村麻呂に命じ、征軍四万に将として、之お征伐せしめたれども、余燼猶ほ未だ滅せざりしかば、嵯峨天皇弘仁二年、更に征夷将軍文室綿麻呂おして、精兵二万お率いて之お討たしめ、僅かに其の遺蘖お苅鋤し、余類お殄滅することお得たり、而して蝦夷の事は、尚ほ地理部蝦夷篇に在れば、宜しく参看すべし、佐伯は、さへきと雲ふ、蝦夷と同種なり、日本武尊東征の時、其捕獲したる蝦夷お伊勢神宮に献ず、蝦夷等、旦夕喧噪したりしかば、倭姫命号して佐祁毘(さけび)と為す、佐伯は即ち其語の転訛なりと雲ふ、後之お畿外諸国に移配せしめらる、