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古事記伝

熊曾国は曾国なり、曾と雲は、もと書紀神代巻に、日向襲とある地にして、和名抄に大隅国囎唹郡ある是なり、〈○註略〉国名となりてありしことは、書紀景行巻に、十二年十二月、議討、熊襲於是天皇詔群卿曰、朕聞之、襲国有厚鹿文進鹿文者、是両人熊襲之渠帥者也、衆類甚多、是謂熊襲八十梟帥、其鋒不可当焉雲々、又十三年五月、悉平襲国などあり、是お以て襲国即熊曾なることおも知べし、〈○註略〉彼梟帥どものいと建(たけ)かりし故に、熊曾とは雲なり、熊鰐、熊鷲、熊鷹なども、皆猛きお雲称なり、〈○註略〉さて曾と雲名義は、古語拾遺に、天鈿女命、古語天乃於須女、其神強悍猛固、故以為名、今俗強女謂之於須志、此縁也と見え、源氏物語帚木巻に、かくおぞましくは、いみじき契深くとも、絶て又見じと見え、俗語にもおぞきおそろしきなど雲、されば曾は此於曾の約りたるにて、是も猛き意なるべし、書紀に襲と雲字おしも用ひられたるも、本言於曾なる故なるべし、〈○註略〉又思ふに、曾は勇男(いさお)のつゞまりたるか、佐乎(さお)おつゞむれば曾にて、伊お略くは常なり、書紀に渠帥おもいさおと訓り、又功おも伊曾と雲お思ふべし、〈○註略〉さて筑紫島お四として、其一お熊曾国と雲るは、後の日向の南方半国ばかりより、大隅薩摩の地までお、すべて雲し上代の大名なり、