[p.0732][p.0733]
古事記伝
十六
隼人と雲者は、今の大隅、薩摩二国の人にて、其国人は、絶(すぐ)れて敏捷く猛勇きが故に、此名あるなり、〈古言に、猛勇きお波夜志とも、登志とも雲れば、波夜と雲に、猛勇き意もあるなり、隼字お書ことは、迅速きこと、此鳥の如く、又波夜夫佐てふ名も合へればなり、〉景行仲哀の御世のころ、熊曾と雲し者も是にて、即其国お熊曾国と雲き、〈○註略〉又其お隼人国と雲るは、続紀二に、大宝二年、先是征薩摩隼人時雲々、唱更国司等〈今薩摩国也〉言雲々とある、唱更これ隼人なり、〈拾芥抄改名所々部に、薩摩国、元唱更とあり、職員令隼人司義解に、隼人者、分番上下一年為限雲々、とある意お以て、其ころ唱更とは書たりしなり、今薩摩国也とは、続紀撰ばれし時の注なり、〉万葉三〈十五丁〉に、隼人乃(はやびとの)、薩摩乃迫門(さつまのせと)、六〈二十二丁〉に、隼人乃湍門(はやびとのせと)、など雲るも、国名なり、〈書紀孝徳巻に、薩麻之曲、右に引る続紀に、薩摩隼人、万葉に、薩摩乃迫門などある薩摩は、国名には非ず、隼人国の中の地名なり、後まで薩摩郡あれは、其あたりの名にぞ有けむ、〉其お薩摩国とは、後に改められたるなり、〈さて隼人とは、今の大隅薩摩二国の人お雲る中にも、隼人国と雲しは、今の薩摩国の域なるべし、大隅は、和銅六年に日向より分れたる国なればなり、但し上古には、薩摩までかけて、日向とも雲しかば、其中に、薩縻より大隅かけてお、殊に隼人国と雲しにもあるべし、さて国名の、薩摩と改まりしは、大宝より霊亀までの〉〈間なるべし、其故は、右に引る大宝二年の紀には、唱更国とありて、養老元年の紀に、始めて大隅薩摩二国隼人とある、此薩摩は、既に国名なればなり、〉