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松屋筆記
三十七
白波綠林
後漢書劉玄伝に、新市人王匡王鳳為平理諍訟、遂推為渠帥、衆数百人、於是諸亡命馬武、王常、成丹等、往従之、共攻離郷聚蔵於綠林中、数月間至七八千人雲々、注に、綠林山在今荊州当陽県東北也雲々、同書王常伝に、与王鳳王匡等起兵雲杜綠林中、聚衆数万人雲々、強盗お綠林といふは、この故事によれる也、同書霊帝紀に、中平元年、張角反、皇甫崇討之、角余賊在西河白波谷為盗、時俗号白波賊雲雲、また中平四年雲々、黄巾余賊敦大等、起於西河白波谷、寇太原河東雲々、同書献帝紀に、冬十月雲雲、白波賊寇河東、注に、薛瑩書曰、黄巾郭泰等、起於西河白波谷、時謂之白波賊雲々、同書趙典伝に、典兄子謙雲々、転為前将軍、遣擊白波賊、有功封郫侯雲々、同書董卓伝に、初霊帝末、黄巾余党郭太等、復起西河白波谷、転寇太原、遂破河東、百姓流転三輔、号為白波賊、衆十余万雲々、同書南胸奴伝に、単于将数千騎与白波賊合兵寇河内諸郡雲々、賊おしら浪といふは、この故事也といふ、古今、伊物の、おきつしら浪たつた山とよめるも、必盗の事およせつと見ゆ、海道記にも、白波綠林の事あり、さてしら浪といふは、もと逆浪などゝ、叛逆の者おいふより出たる詞にや、たつといへる縁語も、山だちなどによしあり、尚可考、