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窻の須佐美

同じころ〈○延享三年の頃〉遠州見付袋井の辺に、浜川庄蔵と雲者、仇名には日本左衛門と雲、三十余り、長五尺七八寸、強力にて、従ふもの五六百人といへり、所々押入て、強盗す迚、盗賊役徳山五郎兵衛より、組の者お遣して、党類数十人お捕けるに、庄蔵は遁出て逐転せしかば、人相書お以て撿せられしが、冬の末にいたつて、京町奉行永井丹波守〈尚方〉殿へ出て、自訟けるは、御尋の庄蔵にて候、人相書にて御尋候得ば、隠れ申べき方もなし、あるひは自殺又溺死にても仕べく候へども、某お御尋に付て、歷々の御辛労のだん承るゆへ罷出候、又士の礼にて、若党などつれ、御門まで参候は、一人にて参りては、見咎られて捕れては、くち惜候故、如此礼に仕立罷出候、此上は重刑に処せられ候事、覚悟の上にて候と申ければ、縄お懸んとしけるに、強く搦は御無用にて候、いかやうに御搦にても、遁れんと存れば、心にまかせ候、又二十間退候へば人手には懸り申さずと雲けり、延享四年丁卯の春、江戸へ下し囚獄し、其手下の者共の捕置るお引出し見せけるに、平伏して尊貴人に仕るが如く、おそれ敬するとぞ、種々推問の上、女遁れざる身なりとて、京町奉行所へ出たるはさも有べし、見付宿にて捕し時、立退て程経て出ぬるは、心底に巧む所ありと見ゆ、又人人の物お盗みたるにてはなく、貧なるゆへ富有の方に往て金お借りて、困窮のものに貸し与へつるゆへ、諸人帰伏しぬるといふ、さあらば、某の村の民共へ、大金お借置、返すべきといへども受ざる事、徒党の志と見ゆ、此二け条申披べしとありければ、此儀誤りて候、今さら申開きこれなく候と申せしと、巷談にありし、夏の頃、江戸中引廻し斬罪、見付の宿に梟首せられぬ、同類の中六人同罪、奴僕一人遠島せしとかや、巷説に、此浜川は、尾州宗春公に仕へ、間者の役なりしに、後には側近く召されしともいへり、岡崎へ盗みに入し咄し、其外種々の物がたりありし、金千両並衣類上池村駒右衛門、千百両並質物に置候衣類向坂村甚七郎六十両余向坂村西村大徳寺、千両並衣類山崎村平之助、四両程山瀬村弥次兵衛、質物の衣類三木賀村治兵衛、五十両並衣類赤池村源左衛門、衣類半鑓深見村金左衛門、一両弐分並衣類北島村平十郎、
右庄蔵当春より所々押込取り申候、此外村々にて取候もの数々に候、手下のものども去月十九日より廿二日まで段々召捕候、日本左衛門は遁申候、右之趣徳山五郎兵衛殿より申上られ候由、風説書に見えたり、
此時掛川の城主小笠原土丸殿〈後能登守長恭〉幼年なり、家老共注進申さず、越度ありしとて、逼塞の公命有しとぞ、