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今昔物語
十三
春朝持経者顕経験語第十
今昔、春朝と雲ふ持経者有けり、日夜に法花経お読誦して、棲お不定ずして所々に流浪して、隻法花経お読誦す、心に人お哀むで、人の苦ぶ事お見ては我が苦と思ひ、人の喜ぶ事お見ては我が楽びと思ふ、而る間、春朝東西の獄お見て、心に悲び歎て思はく、此の獄人等犯しお成して罪お蒙ると雲へども、我れ何にしてか此等が為に、仏の種お令殖て苦お抜かむ、獄にして死なば、後生亦三悪道に堕せむ事疑ひ不有じ、然れば我れ故に犯お成して被捕て獄に居なむ、然て勤に我れ法花経お誦して獄人に令聞めむと思て、或る貴所に入て金銀の器一具お盗て、忽に博堂に行て双六お打て、此の金銀の器お令見む、集れる人此れお見て怪むで、此れは某の殿に近来失たる物也と雲ひ騒ぐ間に、其の聞え自然ら風聞して、春朝お捕へて勘へ問ふに、事顕れて獄に居えつ、春朝聖人獄に入て喜て本意お遂むが為に、心お至して法花経お誦して罪人に令聞む、其の音お聞く多の獄人、皆涙お流じて首お低て貴ぶ事無限し、春朝心に喜て日夜に誦す、而る間院々宮々より、非違の別当の許に、消息お遣して雲く、春朝は此れ年来の法花の持者也、専に不可陵礫ずと、亦非違の別当の夢に普賢白象に乗て光お放て、飯お鉢に入て捧げ持て、獄門に向て立給へり、人何の故に立給へるぞと問へば、普賢の宣はく、法花の持者春朝が獄に有るに与へむが為に、我れ毎日に如此く持来る也と宣ふと見て夢覚ぬ、其の後別当大きに驚き恐れて、春朝お獄より出しつ、如此くして春朝獄に居る事、既に五六度に成ると雲ふとも、毎度に必ず勘問する事無し、而る間犯す事有て亦春朝お捕へつ、其の時に撿非違使等庁に集て定むる様、春朝は此れ極たる罪重き者也と雲へども、毎度に不勘問ずして被免る、此に依て心に任て人の物お盗み取る、此の度は猶も重く可誡き也、然れば其の二足お切て徒人と可成しと議して、官人等春朝お右近の馬場の辺に将行て、二の足お切らむと為るに、春朝音お挙て法花経お誦す、官人等此れお聞て涙お流して貴ぶ事無限し、然れば春朝お免し放つ、亦非違の別当の夢に、気高くして端正美麗なる童、鬘お結て束帯の姿也、来て別当に告て雲く、春朝聖人獄の罪人お救はむが為に、故に犯しお成し、七度獄に居る、此れ仏の方便の如也と雲ふと見て夢覚ぬ、其の後別当弥よ恐れけり、而る間春朝遂に行き宿る棲無くして、一条の馬出の舎の下にして死にけり、〈○下略〉