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兎園小説
十二
騙児悔非自新
加賀の金沢の枯木橋の西なる出村屋太左衛門といふ商人の両替舗は、浅野川の東の橋詰にあり、文化九年癸酉の大つごもりに、卯辰山観音院の下部使なりと偽りて、出村屋が舗に来つ、百匁包のしうがねお騙りとりたる癖者ありしお、当時隈なくあさりしかども、便宜お得ざりしとぞ、かくて十あまり三とせお経て、文政七甲申の年の大つごもりに、出村屋が両替舗に、人の出入の繁き折、花田色のいとふりたる風呂敷包おなげ入れて、こちねんとしてうせしものあり、たそがれ時の事なれば、その人としも見とめずして、追人ども甲斐はなかりけり、ざてあるべきにあらざれば、太左衛門は、いぶかりながら、件の包お釈きて見るに、うちにはしろかね百匁ばかりと、銭十六文ありて、一通の手簡お添へたり、封皮お析きてその書お見るに、十とせあまりさきつころ、やつがれ困窮至極して、せんすべのなきまゝに、胆太く惡心起りて、観音院の使と偽り、当御店(そのみたな)にて、銀百匁お騙りとり候ひき、こゝおもて火急なる艱苦おみづから救ふものから、かへり見れば、罪いとおもくて、身お容るゝ処なし、よりてとし来力お竭して、やゝ本銀おとゝのへたれば、その封貨お相添へて、けふなん返し奉る、〈国法にて、彼人百匁毎に銀お包みて一封、とし、印お押して行はしむるに、封賃十六文お取ることとぞ是則紙の費に充るととといふ、よりてその十六文お添へたるなり、〉ふりにし罪おゆるされなばかの洪恩お忘るゝときなく、死にかへるまで幸ひならん、利銀はなほのち〳〵に償ひまいらすべきになん、あなかしことばかりに、さすがに名氏おしるさねども、あるじはさらなり、小もの等まで、この文に就き、その意お得て、感嘆せぬはなかりけり、同郷の人中沢氏、〈名は倹〉今滋〈文政乙酉〉正月十一日、即願寺といふ梵刹にて、太左衛門にあひし折、彼の顚末おうち聞きて、件の手簡お見てけるに、手跡もその書ざまも、いといたう拙なければ、さゝやかなる民などのわざなるべしと思ふといへり、折から尾張の人の篆刻おもて遊歷したるが、故郷へ帰ると聞えしかば、そがうまのはなむけにとて、件の事の趣お綴り、たる漢文あり、この夏聖堂の諸生、石田氏〈名は煥〉江戸よりかへりて、旧故お訪ひし日、松任の駅なる友人木村子鵠の宿所にて、中沢氏の紀事お閲して、感嘆大かたならざれども、惜むらくはその文侏偶なり、よりて綴りかへにきといふ漢文亦一編あり、
且編末の評に雲、鳴呼是一人之身、為非義則愚夫猶惡之、及其悔非改過、則君子亦称之、書所謂惟聖不念作狂、狂克念作聖、一念之発、其可不慎哉、孔子曰、過勿憚改、孟子曰、人能知恥則無恥、信哉、夫人不知恥、則非義暴戻、無所不為、苟能知恥、立身行道、凱難為哉、於是知、国家仁政之効、有以使民遷善而不自知者、孔子所謂有恥且格者、可徴哉、予はその文の巧拙に抱れるにあらねども、隻勧懲お旨として、蒼隷農夫もこゝうえ易き仮名ぶみにしつるのみ、さばれその事のはじめ終りお審に伝へざりしは、記者の漢文に作ふたる筆のまはらはぬ故なるべし、〈銀お騙略せられし時の形勢、後に銀お返しくれし時、国主に訴へたるか否の事、原文にもれたり、〉