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今昔物語
二十五
藤原親孝為盗人被捕質依頼信言免語第十一
今昔、河内守源頼信朝臣、上野守にて其国に有ける時、其の乳母子にて、兵衛尉藤原親孝と雲者有けり、其れも極たる兵にて、頼信と共に其の国に有ける間、其の親孝が居たりける家に、盗人お捕へて打付て置たりけるが、何がしけむ枷鏁お抜て逃、なむとしけるに、可逃得き様や無かりけむ、此の親孝が子の五つ六つ計なる有ける、男子の形ち厳かりけるが走り行けるお、此の盗人質に取て、壺屋の有ける内に入て、膝の下に此児お掻臥せて、刀お抜て児の腹に差宛てヽ居ぬ、其時に親孝は館に有ければ、人走り行て若君おば盗人質に取り奉りつと告ければ、親孝驚き騒て走り来て見れば、実に盗人壺屋の内に児の腹に刀お差宛て居たり、見るに目も暗れて為む方無く思ゆ、隻寄てや奪てましと思へども、大きなる刀の鑭めきたるお、現に児の腹に差宛て、近くな寄り不御座そ、近くだに寄御座ば、突き殺し奉らむとすと雲へば、現に雲まヽに突殺ては、百千に此奴お切り刻たりとも、何の益かは可有きと思て、郎等共にも、穴賢近くな不寄そ、隻遠寄にて守りて有れと雲て、御館に参て申さむとて走りて行ぬ、近き程なれば守の居たる所に、周章迷たる気色にて走り出たれば、守驚て此は何事の有ぞと問へば、親孝が雲く、隻独り持て候ふ子の童お、盗人に質に被取て候ふ也とて泣けば、守咲て理には有れども、此にて可泣き事かは、鬼にも神にも取合などこそ可思れ、童泣に泣事は糸鳴呼なる事には非ずや、然許の小童一人は突殺させよかし、然様の心有てこそ兵は立つれ、身お思ひ妻子お思ては俸弊かりなむ、物恐ぢ不為と雲ば、身お不思は妻子お不思お以て雲也、然にても我れ行て見むと雲て、太刀許お提て、守、親孝が栖へ行ぬ、盗人の有る壺屋の口に立て見れば、盗人、守の御座也けりと見て、親孝お雲つる様には否息巻ずして、臥目に成て刀お弥よ差宛て、少しも寄来ば突き貫つべき気色也、其の間児泣事極じ、守、盗人に仰て雲く、女は其の童お質に取たるは、我が命お生かむと思ふ故か亦隻童お殺さむと思ふか、〓に其の思ふらむ所お申せ彼奴と、盗人詫し気なる音お以て雲く、何でか児お殺し奉らむとは思給へむ、隻命の惜く候へば生かむとこそ思ひ候へば、若やとて取奉たる也と、守、おい、然るにとは其の刀お投げよ、頼信が此許仰せ懸けむには、否不投では不有じ、女に童お突せてなむ、我れ否不見まじき、我心ばへは自然ら音にも聞くらむ、〓に投ぐよ彼奴と雲へば、盗人暫く思ひ見て、忝く何でか仰せ事おば不承ら候はん、刀投げ候ふと雲て、遠く投げ遣つ、児おば押起して免したれば、起き走て逃て去ぬ、其の時に守少し立去て、郎等お召て彼の男此方に召し出せと雲へば、郎等寄て男の衣の頸お取て、前の庭に引き将出て居えつ、親孝は盗人お斫ても棄てむと思ひたれども、守の雲く、此奴糸哀れに此の質お免したり、身の詫しければ、盗おもし命や生とて質おも取にこそ有れ、惡かるべき事にも非ず、其れに我が免せと雲に随て免したる、物に心得たる奴也、速に此奴免してよ、何か要なる申せと雲ども、盗人泣きに泣て雲事無し、守此奴に粮少し給へ、亦悪事お為たる奴なれば、末にて人もぞ殺す、厩に有る草苅馬の中に強からむ馬に、賤の鞍置て将来と雲て取りに遣つ、亦賤の様なる弓胡錄取りに遣つ、各皆持来たれば、盗人に胡錄お負せて、前にて馬に乗せて、十日許の食許に干飯お袋に入れて、布袋に裹て腰に結び付て、此よりやがて馳散じて去子と雲ければ、守の雲に随て馳散じて逃て去にけり、盗人も頼信が一言に憚て質お免してけむ、此れお思ふに、此の頼信が兵の威糸止事無し、彼の質に被取たりける童は、其後長に成て金峯山に有て出家して、遂に阿闍梨に或にけり、名おば明秀とぞ雲けるとなむ、語り伝へたるとや、