[p.0839][p.0840][p.0841]
湯土問答

問 源平の比、遊女といふもの、今の世とは大にかばれる事歟、小松大臣の伊豆守仲綱のもとへ馬おおくるとて、夕部陣外よは傾城のもとへ通れし時、用ひらるべしとありし事見え、又志水冠者お遊女別当としたる事は、いか成事やらん、又太平記に、金崎の城舟遊に、島寺の袖と雲遊女参りし事見ゆ、戦の中なるゆへにや、東宮の御前へもうかれめの参りし事、其時代と今と異なる風俗のゆえにや、
答 遊女の事、今の世或は傾城など申候、大にかはれるもなきにや、朝野群載に見えし所、大体今のごとき者にて、専ら船舶旅宿のものと見え候へば、今の留め女、又湊の遊女のことヽ相見候、其中河陽に遊女多く有之候由、大江以言の遊女の詩の序に見えたり、是は今の山州山崎の地なれば、都近にて今の島原町のごとくなりしなるべし、是ももとより船著の地にてありし故なり、昔は遊女と雲へば船泊の女、傀儡といへば旅宿の女にて、是おばくくつと唱へしこと也、故に歌の題にも遊女とあれば、江口室などおよみ、傀儡とあれば、野上鏡などの宿およみ来り候、されども昔に傾城と呼しことは聞えざるにや、小松の大臣の仲綱のもとへ申送りん傾城は、遊女にかぎりしことにあらず、遊女にもあれ、常の女にもあれ、みめよき女お傾城と雲ることにや、此外にもみめよき女お傾城と雲しこと、古書に見申候やうに覚候が忘れ申候、又東鑑に里見の冠者お遊君の別当とせしことは、〈志水にてはなく里見にて候、志水は木曾殿女、〉時にとりてのことなるべし、此ことお考るに、是は富士野の狩の時のことかと申覚候、其世にすべて遊女の買論、又盃の思ひざしなどに口論あわて、闘諍にも及ぶべきこともありしこと、曾我物語に見え、其上富士野の狩場遊女多くつどひ行しことも、同じ物語に見たれば、其異論などあらぬ為に奉行人お命ぜられしことなるべし、其世武家の政道になりし初なれば、礼義等も不調、又東国の風などもありて、はしたなき名の別当もありしなるべし、其外東鑑の初には、当時の武家のならはしに異なること多く相見え申候、又金崎の舟遊の時、東宮の御前へ遊女出しこと、其時までも古代のならはしの残りたるなるべし、古代の行宮へ遊女お召ありし事は多く候、宇多帝鳥飼院にて玉淵が女の遊女になりしお召て、歌およみて奉り、後三条帝住吉詣し給ひし時に遊女お召近衛帝の島の千歳、若と雲遊女お召しことなど、大和物語、大鏡、栄花物語、平家物語等、何ほども見え候ことにて候、