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〈浪花雑誌〉街乃噂

万松もし新町〈○大阪〉には、女郎に引舟(ひきふね)といふがあるじやあ肱りやせんか、江戸では芝居の桟敷には、引舟と雲ふがありやすが、女郎の名お引舟といふは、どふいふ訳でありやす子、鶴人、引舟、鹿恋(かこひ)、端女郎(はしぢよらう)、牽頭(たいこ)女郎などゝいふ、いろ〳〵の名がむりやす、引舟といふは、太夫に附て行く女郎のことでありやす、譬ていはゞ、太夫は大船に表し、それにつなげる舟ゆえ、引舟といふので肱りや正、万端太夫についていて、取八おする役でありやす、江戸吉原でいふ、番新(ばんしん)のことでありやすぜい、それだから引舟は売は致しやせん、浪花枕といふ随筆物の説では、此の引舟といふは、夕ぎりより初つたとありやす、夕霧は一〈つ〉体京都の島原の女郎で、扇屋四郎兵衛といふ者の抱で、其扇屋が、完文年中に大阪へ引越やした、其頃夕ぎりが下るといふ噂が、大阪中の評判となり、毎日々々川筋の見物が、山のごとくだつたとありやす、夕霧の美艶きことは、何んともかとも譬やうがなく、其上万芸に達し、行儀発明言語に述がたしといふもので有やすから、さあ大阪へ来ると全盛日に増して、所々方々の揚屋から、大臣のまねくこと、引もきらずといふことで有やす、そこで夕霧も勤あぐんで、自分で一人づヽ女郎お揚て召つれ、諸方より一時に口の掛つたとき、此揚(あげ)女郎お、先の揚屋へやりやして、坐おもたせておき、初めから来た客お、順々に勤めて廻つたといひやす、其とき此揚女郎のことお、引舟と名付けたとありやす、夕霧より前は、太夫も引舟お連てあるきやすことは、夕霧から此方のことだといひやす、千長、それで引舟の訳が知れやした、もし完文年中といつては、夕ぎりも百七八十年になりやす子、