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当世武野俗談
新吉原松葉屋瀬川
新吉原江戸町松葉や半右衛門抱瀬川(○○)といふ傾城は、十け年以来は、五丁町に並ぶ方なき全盛なり、其人となり異なり、夫遊女うかれ女といへども、往昔お尋見れば、此里にも完文の頃には、小紫(○○)は能和歌の道に達し、不断敷島の道お尋ね、風雅にして心やさしく、世上こぞつて偏に石山寺の観世音にて、源氏六十帖編集したる紫式部にも似たりとて、其名お小紫と号しとなり、名高き雅女たり、〈○中略〉又島原の吉野(○○)は、初め浮船と名乗しお、或春廓桜の花盛お見て、島原籠中の吟とて、
こゝにさへさぞな吉野は花ざかり、と雲名句有しゆへ、これより世に吉野と呼れける、又正徳の頃とかや、江戸町茗荷やの奥州(○○)が提灯の文字、貞清美婦胎と雲五文字の裏に仮名にててれんいつはりなしと書て、中の町へ持せ道中せしとなり、其後享保の頃、万字や九重(○○)が浮世の末に、隅田川の三十一字に、奉行大岡忠相の猛き心お和らげしと、要秘錄に先達てしるし出したり、是等皆々廊の花紅葉と、其時々のさかり成べし、今は皆散果し、又来春も咲花の絶ずして、今〈○宝暦〉松葉屋の瀬川と雲、器量甚勝て、此里随一の美人、王照君西施も面お恥、通小町も顔お覆ふ姿なり、其生れ下総国小見川のかろき民の娘たり、幼少にて松葉や半右衛門抱て教ける、自然と女の道たることお不学して是お知、妓女の芸一と通り、三味せん、浄瑠璃は勿論、茶の湯、はいかい、棊双六、ありとあらゆる芸、不思議に習ひて、鞠なども、上手なり、鼓笛諷舞も能、其上能書にて俗気おはなれ、広沢烏石が流義、文徴明が墨跡に眼おさらし、唐詩選お取廻し、歷々の儒者の門弟にも、爪おくはへさせ、絵も上手にて、京下り秋平〈大雅堂〉が弟子と成て、画工にくはしく、俳諧は乾什米仲が引付に入て、こと〴〵く人の知る所なり、其上易道に委しく心、お用ひ、平沢左内が弟子と成て、卜筮お学びけり、