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後者昔物語
巴屋〈○吉原〉に岩こす(○○○)といふ傾城は、秀たるものなりき、渠はもと越後信濃あたりの深山のものにて、山女衒行(ぜんけ)かゝりて見れば、老女隻壱人、六七歳の小女とあやしき家居に住むあり、立よりて問へば、此小女は父母におくれて、我手に育侍るといふ、かゝる所にあらんよりは、我江戸に連行ん、我にあたへまじやといへば、山奥のかゝる所にありて、若我死せば狼の餌食どもならん、夫いと幸なり、づれ行て命お全くし給れといふ、女衒歓びて金弐分お老女に与へければ、老女も悦びけるとなん、是後に巴屋の岩こすとて、全盛の君となりたるといふ事お、年経て聞けり、其虚実はしらず、同藩の大山氏なるもの、此岩こすに逢けるに、夏の頃なりしが、厨の外に来りて、禿お呼で水お取よせ、其半呑て、暑しやと問ふ、大山暑しと答ふ、其時その茶碗お持て厨に入り、めみさしたる水おめまする心かとおもふに、さはなくておのれ一口呑て、大山が寐たる顔に向ひて、ふつと霧お吹かけたり、顔より髪襟のあたりまで、水にぬれければ、驚きて起上る、岩こす笑て、呑たるよりは凉しからんといひしとなり、凡妓の気骨にはあらず、一談お聞ても察すべきなり、