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完天見聞記
深川其外の料理茶屋、水茶屋、また宿場の飯盛女と吉原とおさして、世に惡所場とす、惡所と聞ては、近よるまじき処なれども、しばらく御宥免有しこと、国の金銀融通なるべきお、身の分限おわすれ、惡所へ行て酒食に長じ、無益の奢に金銀お費し、其身の不融通となり、又不養生となること、歎くべきの至也、〈○中略〉是よりして、世に惡所と唱へし場所の盛なる時の様お説て、勧懲の一端となす、深川土橋の娼婦は、価昼夜十弐匁づゝ五つに切る、えいき横町の子供屋より呼出し土橋にあそぶ、仲町も価同じく、中裏の子供屋より呼出し、仲町の茶屋にあそぶ、表櫓裏やぐら裾つぎともに、価書一歩弐朱、夜壱歩、ひと切は弐朱也、表矢倉は裏に子供屋有て、援お大裏といふ裏やぐら裾継は、子供内にあり、いづれも芸者は別に有、また仲町の西北に、松村町といふ処お綱打場と唱ふ、援に切見世あり、吉原にててつぽう見世といふ、是より大新地には、大漢楼、五明楼、百歩楼とて、三軒の揚屋あり、いづれも大川より般付きにて、二階見晴し、普請美なり、娼女は裏に小供屋あつて呼出す、価仲町と同じ、此大新地と土橋仲町は、芸者奉公人請状にて小供おかゝへ置事故、名も何吉何次などゝよぶ、其外は酌取奉公人請状にて抱るとぞ、小新地は昼夜金壱歩、後に五六となる、娼家四五軒有て、裏やぐら裾つぎと同じ、仲町お初め其外の娼婦、客の迎ひとて、屋根船にのり、舟宿まで行事あり、又おくりとて客とゝもに舟に乗行あり、皆衣類髪の飾り美お尽し、時花ものお専らとして、高金の品お用ゆ、かることいひて中居の女付そひ行、是も縮緬の前垂おして頭の飾り高金の品お用ゆ、此舟春夏の頃は、両国川あたりに、納凉花火などに遊ぶ事有、前に雲三味線芸者お伴ひし舟ともに、橋間につなぎて猥がはしき事も有しより、屋根船のすだれは、雨雪の時、または波立たる時の外は巻上おくべし、橋間につなざ置べからずと、此年、〈○天保十三年〉四月に令ありける、又深川八幡の向なる佃町、松代町代地おあひると名づけて、此所河岸通裏町とも、娼家軒おならべ、娼婦の衣装はさらし木綿に、太織の緋がのこなど、すこし肩入れして、裾まはしは黒木綿お用ひ、皆見にくき姿也、価昼六百文、夜四百文なる故、四六見世といふ、此処今は盛りなれども、昔は河岸通りに、茅葺の家わづか弐三軒にして、賤しき者おのみ客とす、其頃援にあそぶ人、価おおしみて、百文のさしの内にて、十六文計りお残して渡せしかば、娼家の僕是お受て、此お足は少し短うござりますといひしかば、客人答て、何、家鴨ではあるまいしといひしとぞ、一説にこの佃町は、昔佃島の猟師どもが、網の干場とせし処故に佃町の名あり、故に網ひるといふお、俗誤てあひる〳〵といひならはせしと、ある翁の物語せし、此所にもきり見世あり、皆賤しき限りなるべし、深川常盤町に揚屋四五軒あり、裏の小供屋より呼出す、娼婦の価、櫓下におなじ、芸者も有、此辺引手茶屋多し、本所御船蔵前町お、土俗あたけといふ、援にも切見世有、娼女の衣装もよかりしが、文化年中諍論の事有て絶、此処軒並の水茶屋あり、此茶店のうしろに、お旅とて五六軒の娼家あり、内に子供有て価常盤町に同じ、又一つ目弁天の門前に八郎兵衛屋敷といふあり、ここに五軒の娼家あり、至て穏便なるあそびにして芸者もなし、高わらひ大声お禁じ、手おたゝきて呼事ならず、畳おたゝきて中居およぶ、子供屋敷に有て呼出す、価昼夜一両一歩、一切一歩なり、家の作り方、娼家に似ず、狭くして風流の構也、此処弁天と雲、松井町に五六軒の娼家あり、子供は内に有て、常盤町とおなじ、此辺引手茶屋おほく、お旅弁天松井町へおくる、伺じく入江町に鐘の下とて四軒有、子供内に有て、価は五六あひるに同じ、此辺長崎町長岡町吉岡町のまはり、いく棟となく切見世あり、陸尺長屋、半長屋、抔色々の名あり、〈○中略〉援に今は天王寺といふも、前は感応寺といふ日蓮宗也、門前に昔よりいろは茶屋とて五六軒の娼家あり、今はさかりにして家数も増し、娼婦の価は五六なり、根津町よぢ引手茶や軒おならべ、総門より内両側娼家建続普請美お尽し、浴室なども奇麗なる、援に過たるはなし、価弐朱も五六もあり、切見世もあり、又音羽町八町目九町目に娼家有しも、今は衰微して才残り、きり見世あり、牛込若松町に熟(じゆく)谷とて切見世あり、赤坂御門外溜池の端に麦飯と雲娼家、表町裏町五六軒づゝあり、価五六にて穏便の遊処なり、もと麦飯おあきなふ店なりしが、吉原深川お米と見立て、夫より賤しきといふ心にて麦といふ歟、援にも切見世あり、美なり、麻布市兵衛町の裏は谷なり、此処に切見世の大廓あり、同鳥居坂の下に、薮下とて切見世あちしが、天保八九の頃、有馬家の下部と諍論して絶たり、鮫け橋に切見世弐け所あり、援にも夜鷹屋有て吉田町におなじ、芝三田同朋町に、三〈ん〉角とて娼家五六軒あり、麦飯と伺じ切見世もあり、天明の頃きり見世お五十雑(さふ)と呼けるよし、価も五十銅なればにや、百銅となりて鉄炮店といふにや、〈○中略〉されば右に挙たる江戸中の娼家弐拾七け所、野郎や四け所なり、外駅場の娼家五け所、品川、新宿、小塚原、千住、板橋あり、吉原お加へて四拾け所にも及ぶべし、かくのごとく惡行の者どもまざりて風俗お乱し、綱常お破ることすくなからずとて、此度の公令に依て、吉原と駅場の外は、娼家ことごとく取払はれて、俄に家業お改めて商人になるもあり、家お移して他郷に走るも有、さしもに建つらねたる高楼粧閣、一時にとり毀れて、荒原とそなりにける、是よりして都下に遊民なく、工商おの〳〵其業お勤めて、げに有がたき聖の御代の御政とも仰ぎ奉るべし、