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一目千軒
廓之起
往昔天正十七年、原三郎左衛門、林又一郎といひし浪人に、傾城町の事許命されて、始めて冷泉万里小路の上に、一の廓おひらきし也、武門より出し人、これお始むるゆへにや、世人新屋敷とぞ呼びけり、くるわといへるも相当せる歟、両士女郎屋の長となるはじまり也、則原氏は今の島原上の町西南角桔梗屋八右衛門祖也、是相続して今の桔梗屋治介家筋なり、又林氏は下の町西南角の藤屋八郎左衛門屋敷〈今は此ところ、素人の家也、〉其跡也、林氏それより完文年中に大坂へ引越、今の大坂新町扇屋是也、
旧地之考
開け始りし万里小路冷泉は、本東山殿御酒宴の地也、今の押小路柳の馬場東へ入町お橘町と雲、昔橘屋といへる揚屋の居たる跡なりとぞ、天正十七年より、慶長六年迄、十三年に成、是最初の地也、然るに京の町繁昌し、段々建続けるにより、慶長七年、六条へ移されける、今の室町新町西洞院の間、五条橋通下る二町四方に構へ有、完永十七年迄三十九年に成、新町五条下る町当所揚屋町すみ屋徳右衛門所持の家、今に有、是三筋町の遺所也、其のち完永十八年、今の朱雀へ移さる、今の島原百十七年に成、始より今の土地にて三度目也、宝暦七年迄合百六十九年に成、
廓総名之事
冷泉に〈今の夷河通也〉ひらけ始まりしときは、新屋敷といひける処に、万里の小路の上〈今の柳馬場なり〉に、やなぎの樹あまた有、出口の茶屋などは、柳の樹の間々に暖簾かけ、床几お出し居ける、柳林お伐ひらき、一かまへの町となりしより、世人柳町と唱へける、夫より六条へ引移されしとき、廓のかまへの内に小路三つ有しにより、此時は三筋町と申ならはしける、又今島原とよぶは、肥前の島原さはがしかりし時節に、六条三筋町お、今の朱雀野に引たる故、異名お斯は付たり、古名は新屋敷とも、柳町ともいふ、唐土にては華街〈くるはの総名也〉大道にさし夾むといひて、町中に廓有と見へたり、