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〈浪花雑誌〉街乃噂

鶴人、〈○中略〉女郎は大坂のことで肱りやす、新町などへいつて御覧じやし、嬋娟たる者が余ほど居りやす、千長、新町と雲ふのが江戸で雲ふ吉原で肱りやすか、鶴人、さやうさ、新町お廓といつて御免の場所でありやす、慶長の頃までは、諸々方々に遊女屋があつたさうで肱りやすが、夫お宝永年中に、今の土地おくだされ、諸処の遊女屋お一処にあつめて、廓となりやしたのが、今の新町でありやす、万松、揚屋の立派なは、其新町でありやす、鶴人、さようさ、京の女郎に長崎の衣裳お著せ、江戸の張おもたせて、大坂の揚屋で遊びていといふは、新町のことでありやす、千長、揚屋の数も余ほどありやすか子、鶴人、たしか七八軒も肱りやしたつけ、まづ堺屋に吉田屋、中ずみに井筒屋、高島屋にはりよ、茨木屋と七軒で肱りやす、万松、もし置屋(おきや)といふは何のことで肱りやす、鶴人、女郎お抱へておく内のことお置屋といひやす、江、戸の様に、女郎屋へ直に入つては買やせん、大坂では揚屋へ女郎お呼び出してあそびやす、それも新町ばかりのお揚屋と称へ、あとの茶屋のは呼屋(よびや)といひやす、万松、跡の茶屋とは、鶴人、新町は江戸の吉原のごとく、御免の場所で肱りやす、其外江戸でいふ岡場所といふやふなが、幾等もありやす、島の内(うち)だの、坂町だの、難波新地、北の新地、堀江馬場崎、霊符など、数おほいことでありやす、江戸の御旅(たび)松井町、常盤町、根津、谷中などの様な処でありやす、それお大坂ではおしなべで島といひやす、江戸では岡場所といひやす、其処の女郎お揚てあそぶ茶屋お呼屋といひ、新町のお揚屋といひやす、千長、なるほど御咄で、呼屋といひ、揚屋といふ訳がわかりやした、万松、置屋といふことは、新町でも外の場所でも、同じことでありやすか子、鶴人、置屋は廓も島も同じことで有やす、千長、新町には置屋もよほどありや正子、鶴人、さやうさ、まづ大きなのはくらはしや、つちや、つの井、中の扇屋、東の扇屋、西の扇屋、西のおりや、東のおりや、其外にもかみ喜、松瀬、かかいでや、ちくさや、ちきだや、綿長、八百新などといくらもありやす、